安楽椅子のモノローグ

完全なる頭でっかちを目指す

死にゆく患者(ひと)と、どう話すか

 日本人の死因第1位は「悪性新生物」である。端的に言えば、「がん」だ。日本人の2分の1は、「がん」に罹患し、3分の1は「がん」で死亡する。将来の見通しはさらに悲観的なもので、そのうち日本人の3分の2が「がん」に罹患し、2分の1が「がん」で死亡するなどとも言われている。「がん」は身近な存在である。「がん」は僕らにとって、最大の敵ともいえるだろう。我々は、この古い病いを未だ完全には克服できていない。新年早々、病気の話なんて縁起でもない、というお怒りを受けそうだが、好むと好まないとにかかわらず、いずれ「がん」と向き合わねばならない時代が必ずやってくる。そのとき、まるで知識のない状態よりかは、少しでも知識をもった状態でいた方がよいことは間違いない。僕は、どんな人でも「がん」についての知識をできるだけたくさん持っていた方がよいと思っている。

 

 ところで、話は変わるが、僕は医学書院の本を結構たくさん持っている方だと思う。別に、医学書院の回し者ではないが、医学書院の本は、総じて素晴らしいものが多い。一番、お世話になったのは『標準シリーズ』で、今でも本棚の一番いいところに配置し、いつでも参照できるようにしている。『標準シリーズ』は、正統派のがちがちの医学書なのだが、医学書院は、それと正反対と言ってもよいほどの、とてもラディカルな書物を出版する会社でもある。以前、記事を書いた『中動態の世界』などは、そのラディカル派の1冊であり、この他にも、『ケアをひらくシリーズ』には、きわめて文学的なノリのものが多い。

 


 年末から正月にかけて、医学書院の『死にゆく患者(ひと)と、どう話すか』を読んでいた。これは本当におもしろい本で、がん診療におけるコミュニケーションの方法が、きわめて実践的に、そして、建前などかなぐり捨てた臨床医の本音が、赤裸々につづられている。

 

f:id:cannakamui:20180103225400p:plain

 

 本書は、國頭英夫先生が、日本赤十字看護大学の1年生に対して講義した「コミュニケーション論」を収録したものである。長年、がん診療に携わった著者が、看護科1年生と真剣な討論をしながら、末期を迎えた患者と、どのようにコミュニケーションをとっていくかについて、学生に超・実践的極意を授けていく。

 

 看護科1年といえば、つい最近まで高校生だったわけであり、まともな討論ができるんだろうかと、僕はページをめくりながら心配していたのだが、國頭先生は、何の躊躇もなく、難解な問いを発していく。たとえば、「死にたい」という希望は、叶えられるべきかとか、死後の世界に「希望」を求めることの是非とか。しかも、そのひとつひとつに必ず自分なりの解答を用意させるというえげつなさである。しかし、僕の心配をよそに学生たちは、しっかりと考え抜かれた真剣な解答を提示する。これには正直かなり驚いた。僕がもし同じ問いを発されたとき、この学生たちのように立派な解答を作ることができるだろうか。

 

 医療従事者は、本書をもちろん読むべきであるが、僕は医療従事者以外の人たちにもぜひとも本書をお勧めしたい。本書は、末期がん患者とのコミュニケーションを主題としているが、実際にはコミュニケーション一般に通ずる実践的スキルもたくさん書かれている。特に、「悪い知らせを伝える=breaking bad news」というのは、誰でもいつかは必ず遭遇する。そのとき、どのようなコミュニケーションをとればいいのか、本書を読むとその対処法がよくわかる。

 

 講義の質も非常に高い。それはもちろん國頭先生と学生のどちらもが、相応のレベルの高さを有しているからなのだろうが、「双方向講義のあるべき姿」が、鮮明に記されている。先生と学生のやり取りが、単なるやり取りだけに終わらず、ひとつの問題提起から幾方向にも派生して、問いと解答が巧みに昇華され、読んでいて数ページごとに「うわぁ・・・」と感嘆の声を漏らすほどである。

 

 冒頭にも書いたが、いずれ日本人は必ず誰もが「がん」と対峙する(せねばならない)時がやってくる。そのようなとき、患者とコミュニケーションをとるのは医療従事者であってもよいが、この先、家で看取るという機会は確実に増えてくる。そうすると、最も密なコミュニケーションをとるのは、他ならぬ家族ということになろう。そこで、コミュニケーションスキルを持っているかどうかは、大きな問題となってくる。スキルなどどうでもいい、心でぶつかればいいんだ、などという人に時々出会うが、僕はそのような人がまともなコミュニケーションをとれる姿を見たことがない。スキルとは何も誰かをだます技ではない。すべての人が安らかに相互理解を深めるためのマストアイテムなのである。

 

國頭先生の次の言葉は、肝に銘じておいてよい。

 

難問に対しては出てくる「答」は不十分であることが多い。その不完全性を認識し、常に見直すことによって、我々はより正しい「答」へ近づけるのです。求められたからいってただ「答」をポンと出しておしまい、ではなくて問題の困難さを理解し、「答」の不満足な点を認識しておくのは、本物のプロの証拠ですよね。

 

 

 来るべき時代に備えて、自分なりの「答」を用意しておくこと。その「答」は一人ひとり違ってよい。だが、その「答」は少ないよりも多い方がよい。いろいろな「答」をつき合わせた結果、さらなる良い「答」を僕らは探していける。そのような自分なりの「答」を見つけておくためにも、1家に1冊と言って、過言ではない書物である

メフィスト賞の軌跡―その15 氷川透

コムロの曲がみんな同じだって?〔…〕むしろ興味深いのは、彼の曲って、どうやって作ったのかプロシジャが露骨に透けて見えることだよね。彼の作曲は、きわめてルーティンなパターンに則った作業にちがいない。才能もひらめきも必要ない。それにくらべて、宇多田ヒカルなんて、感覚は斬新だけど作曲の方法論そのものはものすごく伝統的だろう?

 

 

【あらすじ】
 推理小説家志望の氷川透は久々にバンド仲間と再会した。が、散会後に外で別れたはずのリーダーが地下鉄の駅構内で撲殺された。現場/人の出入りなしの閉鎖空間。容疑者/メンバー全員。新展開/仲間の自殺!?非情の論理が唸りをあげ華麗な捻り技が立て続けに炸裂する。島田荘司氏も瞠目する第15回メフィスト賞受賞作。

 

 『真っ暗な夜明け』は、大きく分ければ2つの要素をもつ小説である。

 

 ひとつはもちろん、本格ミステリ小説としての要素である。人の出入りがない閉鎖空間に限りなく等しい終電の地下鉄構内で、殺人事件が起こる。殺されたのは、かつてのバンド仲間のリーダーであり、地下鉄構内に居合わせたのは、バンドメンバーだけだった。容疑者はバンドメンバー全員だが、彼らは常に誰かが誰かを見ていた。つまり、各自が他の誰かのアリバイを証明できてしまうのだった。一体、この不可能犯罪はどのようにして成し遂げられたのか。そして、起こる第2の事件…。

 

 もうひとつは、青春ミステリとしての要素である。青春といっても、彼らの中にはすでに社会人となったものもいれば、大学院生という立場のものもいる。いわば彼らは、青春の真っ只中というよりは、青春を回顧しつつも、まだ青春から遠のきたくないという、微妙な年代にいる若者たちだ。そのような若者たちの心の内が、登場人物の視点を次々に変えていく手法によって、鮮明に描き出されていく。

 

 繰り返しになるが、本作は、How(犯罪はどのようにしてなされたのか)、Who(犯罪は誰の手によってなされたのか)、Why(そもそもその犯罪はなぜ行われねばならなかったのか)のすべてを論理的に解決できるよう描かれており、純粋に知的なゲームとして楽しむことのできる小説であると同時に、モラトリアム期にある若者たちの生態や心理を克明に描いた小説でもある。ミステリ小説としても、青春小説としても、どちらのクオリティも高い。本作は文句のつけようのないメフィスト賞受賞作である。

 

 社会人になるかならないかの時期というのは、えてして無用なほどに他人との比較をしてしまいがちな時期であり、誇大な焦燥感に苛まれがちである。就職できた奴は勝ちで、できていない奴は負けとか、あるいは、自分の好きなことをやって生きている方が勝ちで、望まない就職する方が負けとか。僕はそういった時期をだいぶ過ぎ去ってしまった中年だから、そんなことは実は些細なことなんだよ、と言ってしまいそうになるが、自分がその当事者であった頃は、やっぱりすごく悩んでいた。

 

 だからこういう作品を読むと、その頃を思い出してとても気恥ずかしい気持ちになってしまう。と同時に、主人公の氷川透が、やたら推理にこだわることに妙な親近感を覚えてしまいもするのである。僕は、最初氷川がどうして推理にこだわるのかよく理解できなかった。しかし、よくよく考えると、氷川は推理を通じて自分のモラトリアム期間を延長させようと図りつつ、自己の存在証明をもしようとしているのではないかと思い、合点がいった。

 

 本作は、視点が統一されておらず、パラグラフごとに語り手が変わっていくのだが、そのために、各人の心理がわかり、より一層キャラクターたちに対する読み手の複雑な思いが増すようにできている。読んでいるうちに、自分の中で勝手に合う、合わないができていて、いつの間にか特定の人物の肩を持ったりしている自分がいる。読者への挑戦状もあり、本作は、がちがちの本格ものなのだが、僕はあまりにも登場人物たちの心理に入り込み過ぎて真っ当な推理が全くできなくなってしまっていた。実は、それこそ、氷川透が本作に仕掛けた一番のミスディレクションなのではないかと僕は思っている。

 

 物語に深く入り込めば入り込むほど、事件の真相が提示されたときの悲しみは深い。事件は解決されるべきではなかったかもしれない、とさえ思ってしまうほどだ。青春は確かに美しい、だが、青春は同時に残酷さも備えているのだ、というのがよくわかる。それでも、名探偵は事件を解決しなければならないし、残酷なまでに美しい解決を用意する。論理とはよく言われるように、確かに非情なものなのかもしれない。つまり、論理を駆使する名探偵というのは、最も美しく、残酷で、非情な存在である。彼は、ときに真犯人よりも狡猾で、狂気と紙一重の思考に支配された存在である。

 

最後まで読んで、題名を眺める。『真っ暗な夜明け』。なんと秀逸な題名だろう。この題名の秀逸さは本作を読んだものにしかわからない。

 

前回のはこちら。

メフィスト賞の軌跡―その14 古処誠二

それは平和で結構なことだ。それが望ましいことなんだ。武力を持っているような組織は、国民から白い目で見られる必要があるんだ。

 

f:id:cannakamui:20171220233608p:plain

【あらすじ】
 自衛隊は隊員に存在意義を見失わせる「軍隊」だった。訓練の意味は何か。組織の目標は何か。誰もが越えねばならないその壁を前にしていた一人の若い隊員は、隊長室から発見された盗聴器に初めて明確な「敵」を実感する…。自衛隊という閉鎖空間をユーモラスに描き第14回メフィスト賞を受賞したデビュー作。

 

 古処誠二『UNKNOWN』は、自衛隊の基地に仕掛けられた盗聴器を巡るミステリである。自衛隊を舞台とするという設定がすでに異色であり、それだけでも心惹かれる。ミステリとして秀逸なのはもちろんのことだが、自衛隊での生活が一体どのようなものかを感じ取ることができ、それが何だか、普段見てはいけないものを見ているような気持ちになって、ある種の背徳感を感じつつ読めるのが楽しい。

 

 自衛官といえば(僕の勝手な憶測だが)、国家の最重要軍事機密を握っている機関のひとつに違いない。そこに盗聴器が仕掛けられたとなると、これはもう、国家の存続にかかわる重大な事件であろう。こういう設定だけで、僕は胸が熱くなる。僕が国家機密に関する仕事をすることなど絶対にないが、そうであるがゆえに、こういった作品に憧れるわけである。

 

 もちろん外部犯であるはずがない。国家機密を探ろうとするのは、常に内部の人間である。そして必ず、それを調査する隠密機関が存在する。彼らはどちらも知能指数が高い。繰り広げられるのは、知能VS知能の完全なる頭脳戦だ。助手役もいる。助手はたいてい頭脳派とは程遠い存在だ。だが、直感力には優れているし、心優しい。冷静な頭脳戦には全く不向きなように見えながらも、主人公に重要な示唆を与える存在である。

 

 と、ここまで書いてきて、まるで『相棒』みたいだなと思った。読んでいるときは、全くそんなことは感じなかったが、思い返せば、たしかに『相棒』みたいな小説かもしれない。しかし、実際には『UNKNOWN』のほうが、『相棒』よりも前に発表されているので、『相棒』が『UNKNOWN』みたいなドラマなのだというほうが正しい。そう考えると、『UNKNOWN』は、『相棒』の前駆作品ということもできる。

 

 しかし、警察という設定はありがちだが、自衛隊という設定はやはり異色だ。本作品は、自衛隊での仕事の様子や生活の様子、そして官僚機構ヒエラルキーで生き残るためにもがく人間たちの様子がリアリティ豊かに描かれている。自衛隊という官僚制度の実態を描いているという意味では、自衛隊の内情を知ることのできる貴重な資料的意義も有しているといえる。

 

 突拍子もないトリックや奇想天外な仕掛けが用意されているわけではない。徹底的に現実に忠実な小説であり、あくまでも論理的に犯人のアリバイを崩し、追い詰めていく。メフィスト賞というのは、現実離れした途方もないアイデアを好む傾向がありながらも、一方で、それとは対極にあるような、リアリティ溢れる小説にもかなり好意的である。この振れ幅の広さこそがメフィスト賞の醍醐味なのだ。

 

 本作のキーワードでもあるUNKNOWNであるが、領空侵犯を犯した識別不明機のことを指している。航空自衛隊の最重要任務のひとつに、UNKNOWNを発見し、特定するというものがある。ほとんどの場合、それは旅客機などの誤認であるが、万が一という場合に備えて、必ず24時間体制でUNKNOWNを見張る隊員が配置されているという。

 

 万が一、などという事態が起こるなんて僕には想像もできないが、しかし、そのような事態を思い描き、毎日気を張って空を見張っている人たちがいるということを僕はこの小説を読んで初めて知った。それだけでもこの本を読んだ価値は十分にあるだろう。

 

 個人の人生など、体験できることはごく限られている。しかし、本を読むことで、僕らは他人の生を短時間で追体験できるのだ。こんなことは読書家には当然の事実だろうが、僕はこの事実にふと立ち返り、いつも驚いている。本を読むというのは、何も読解力を養うためとか、語彙を増やすためとか、のために行うものではない。僕らは本を読むことで、僕ら以外の誰かになることができる。もちろんそれは本だけに限ったことではない。それは映画でも漫画でも何でもよいのだが、卑近な世界に飽きたときは、想像力によって紡がれた物語を覗いてみるとよいと思う。そうすることで、自分がいかに取るに足りない世界で生きているかがよく分かる。

 

前回のは、こちら。

欅坂46は宇宙際タイヒミュラー理論である

 宇宙際タイヒミュラー理論が一体何を語る理論なのかを僕は知らない。どうやらABC予想という数学史上最大級の謎を証明するために使われたということは知っているが、ではABC予想とは何かと聞かれたところで、僕にできるのはただうつむくことだけだ。自分が生きている間に宇宙際タイヒミュラー理論ABC予想を理解できる日はきっとやってこないだろう。それどころか数論の入口にさえ到達できないままに違いない。

 

 先日のニュースで、宇宙際タイヒミュラー理論創始者である望月新一先生が、ABC予想を証明したと報道された。もう少し細く言うと、望月氏が証明したと宣言したのは2012年だが、その証明の検証に時間がかかりようやくこのほど正式に認められたということのようだ。

 

 望月氏は、天才数学者(天才のなかの天才といってよい経歴だ)だが、講演をかたくなに拒み続け、それがABC予想の検証に時間がかかった原因でもあるようだ。氏がなぜ講演を拒み続けたのかはわからない。自分に語れることはもう何もないと思ったのかもしれないし、うまく語れる自信がなかったのかもしれない。恐らくはどちらもあるのだろう。

 

 前置きが長くなったが、今日は別に望月氏の成し遂げた数学史上の一大業績を語るために記事を書いているわけではない。今日僕が語りたいのは欅坂46についてである。

 

 ではなぜ望月氏の話を書いてきたのかというと、実は望月氏が自身のブログで欅坂46について語っている記事が存在し、今かなり話題になっているからだ。 

 

 第67回紅白の衝撃、特に欅坂46サイレントマジョリティに対する衝撃とその歌詞に対する熱い思いが綴られている。氏はサイレントマジョリティの歌詞と彼の宇宙際タイヒミュラー理論との類似性について語る。氏の語る言葉は少なくとも僕にはちんぷんかんぷんでちっとも理解できない(しかしこれは千葉雅也のいう言語偏重の究極の形で、勉強というものの最も洗練された形ではある)のだが、氏がいかにサイレントマジョリティに感動したかは十二分に伝わってくる。

 「サイレントマジョリティー」の画像検索結果

 僕が欅坂46を初めて知ったのは、2016年に偶然視聴していたスペースシャワーTVサイレントマジョリティのMVを観たときだった。イントロがすでに「これは違う」と感じさせるが、その後、平手が低めの声で歌い始めると鳥肌が立つ。終始アイドルらしからぬ刺すような目線で歌い続ける彼女たちの姿は、それまでのアイドル像を大きく覆すものとなった。歌詞もまた衝撃的で、大人への反抗、従順さに対する徹底した批判に僕は最初、自らの聴く耳を疑ったほどである。
 その後、2作目ではポエトリーリーディングにも挑戦した夏のメロディ「世界には愛しかない」、3作目は平手のソロダンスが圧巻と称された「二人セゾン」、4作目はまさにスルメ曲、聴けば聴くほどに耳に残る原点回帰の「不協和音」、5作目は男装でのパフォーマンスが印象的な「風に吹かれても」と、ヒット作を連発し続け、今では音楽シーンで不動の地位を築きつつある。

 

 もはやアイドルではない。 いや、欅坂46こそ新しいアイドルのプロトタイプなのかもしれない。

 

 派生ユニットも魅力的である。ゆいちゃんず、てちねるゆいちゃんず、青空とMARRY、FIVE CARDS、五人囃子、156(いちころ)。ユニット曲にも1曲たりともハズレがない。ここまでくると断言したっていい気がしてくる。「欅坂46は間違いなくアイドルの、そして音楽の歴史を塗り替える」と。

 

 ひらがなけやきもすでに一人立ちし、漢字に迫るほどのグループとなっている。こんなに目が離せないグループは今の日本に多くはいない。

 

 望月新一だけではない、すでに多くの有名人が欅坂46について語り、その虜となっている。彼女たちは、大人への反抗を高らかに謳いながら、誰に媚びることもなく、その実力だけで人気を勝ち得ているのだ。

 

 FNS歌謡祭における平手友梨奈の鬼気迫るコンテンポラリーダンスが記憶に新しい。けものフレンズとのコラボも最高だった。年末に向かい、彼女たちの活躍を見る機会はどんどん増えそうだ。

 

 いつか望月新一欅坂46とがコラボする日も来るかもしれない。

症状を知り、病気を探る―ヤンデル先生に会いたい

 OPQRST ―― アルファベットの歌ではない。医学の世界でOPQRSTといえば、問診の基本である。OはOnset(発症様式)、PはPalliative & Provocative(増悪・寛解因子)、QはQuality & Quantity(症状の性質や強さ)、RはRadiation or Region(放散や場所)、SはSymptoms(随伴症状)、TはTime course(発症からの時間経過)である。患者さんから短い時間で効率よく情報を聴取するためのお作法の簡便な覚え方である。しかし、これは覚えやすいという人もいれば、医師になって何年経っても覚えられないという人もいて、評判はそれほど高くない。

 

 ヤンデル先生の手にかかれば、OPQRTはこうなる。すなわち、「きっとマスカラ強いバタコの時間」。

 

 Twitter界隈ではヤンデル先生といえば、超が10000個ほどつくほどの有名人なので説明は不要かもしれないが、一応説明しておくと、病理医である。病理医を世に広めるため、旺盛な広報活動に励み、病理医の生態を広く世に知らしめた人物である。Tweetは常に知的で、華麗で、時折、下ネタを織り交ぜ、読む人を翻弄する。その語り口にハマる人続出であり、一度虜になると、覚せい剤並みの依存性をもつ。ヤンデル先生のTweet無くしては生きられない体となってしまうのだ。

 

 

病気とは何か、患者さんの痛みや苦しみは何に由来するのか--- 病理医ヤンデル先生が、患者さんがよく訴える5つの症状の“みかた"を語る! ------------------------------------------------ インターネットで「病理医ヤンデル」として有名な著者が、 最もポピュラーで、出合う頻度の高い5つの症状である 「おなかが痛い」「胸が苦しい」「呼吸がつらい」「熱が出た」「めまいがする」 の“みかた"を語ります。 「症状を知る」とは、症状もたらす「痛みの正体」を知ること。 そして、「痛みの正体」から、症状をもたらす「病気を探っていく」。 こうした、患者さんの訴えに耳を傾け、寄り添い、 「症状を知り、病気を探り」、痛みを取り除く考えかたは、 すべての医療者が身につけておきたいものです。 「症状は、『患者さんのつらさ』そのもの」と語る著者の やさしいまなざしから紡がれる、 患者さんを救うための新しい物語です。

 

 『症状を知り、病気を探る』は、症候学の本である。病理医が症候学について語るということに僕は驚いた。病理医にとって、症候学は最も遠い存在に思えたからだ。そもそも病理医が患者さんの問診をし、臨床的診断を下すことなどない。誤解を恐れずに言えば、病理医にとって、症候学は不要といってもよいものなのだ。だが、ヤンデル先生はあえて症候学を語る。それはある意味、掟破りの行為だ。

 

 どの業界でも、自分の専門外のことを語ることは危険を伴う行為である。門外漢が何を語るつもりか! というわけだ。だが、僕は門外漢にこそ語れることがあると思う。門外漢は素人である。素人だからこそ、素人がわからないところがわかる。だから、素人に寄り添うようにして語ることができる。実のところ、ある道の専門家であるということは、すでにある種のバイアスに絡めとられているということである。専門家は専門家であるがゆえに、気づかないことがある。

 

 ヤンデル先生初の著書が、病理の話でないのが本当に素晴らしい。あえてどストライクから外してくるところが、ヤンデル先生らしさを如実に表しているなあ、と僕は思った。

 

 本書では、「おなかが痛い」、「胸が苦しい」、「呼吸がつらい」、「熱が出た」、「めまいがする」という病院で出会う5大症候の考え方について、平易に語られている。しかし、本質はきっちりと捉えられていて、簡単だからといって、内容が薄いということは決してない。そこはさすが病理医というべきだ。病理学総論を極めた者にしかできない見方、考え方というのが実によく表されている。

 

 残念ながら、僕は札幌厚生病院を訪れたことはないが、いつか絶対に行ってみたいと思っている。これだけは絶対に叶えようと心に誓っている。来年の病理学会総会は札幌で開催されるので、これは一大チャンスか、と一人で勝手に心を熱くしている。札幌厚生病院で開催されている、研修医勉強会が、この本のオリジンであるという。もし許されるならば、僕もその会に参加をしてみたい。絶対に実りある会のはずだ。

 

 「まず、患者さんの訴えをしっかり聞くこと」という簡単なようで難しい格言が病理医によって語られているというのがよい。この言葉は、すべての医療従事者にとって遵守されるべき至上命題である。2008年に病理は「病理診断科」という標榜を許される臨床科のひとつにもなった。だから、この格言は、今や病理医にとっても無視のできないものとなっている。ヤンデル先生は、この格言を他ならぬ病理医自身に向けて語っているのかもしれない。

 

 来年には、また別の書物を上梓されるという。ヤンデル先生の快進撃はまだ始まったばかりだ。僕もヤンデル先生の信奉者として、病理に何が貢献できるか真剣に考えている。

 

病理といえば、フラジャイルもぜひ読んでみてください。

 

メフィスト賞の軌跡―その13 殊能将之

「きみがハサミ男だったんだね。さあ、ぼくといっしょに来てくれないか」

 

 

 ミステリ小説に限らず、傑作に出会うというのは幸運であると同時にもの悲しさも伴う出来事である。読んでいる間は高揚感に包まれるが、読み終わってしまうと、もう二度と初読時と同じ驚きを味わうことはできないことに気づいてしまう。それはある種の中毒のようなもので、あの興奮をもう一度味わいたいためだけに、当てもない傑作小説を探す日々が始まる。果てしのない繰り返し。そんな一銭の得にもならないことに時間をかけることに一体何の意味があるのかと問う人もいるだろう。僕だってふと我に返って自問自答するときがある。だがしかし、傑作に出会ったときの得も言われぬ恍惚感を忘れることなど誰にもできはしない。何を馬鹿な、たかだか本なんぞからそんな恍惚など得られるはずがない、と言う人がいたとすれば、その人は単に傑作に出会ったことがないだけなのだ。いいや、そんな作品などあるはずがない。とまだ言い張る人がいたとすれば、その人にはこう言い切ってしまおう。『ハサミ男』を読め、と。

 

 

【あらすじ】
美少女を殺害し、研ぎあげたハサミを首に突き立てる猟奇殺人犯「ハサミ男」。3番目の犠牲者を決め、綿密に調べ上げるが、自分の手口を真似て殺された彼女の死体を発見する羽目に陥る。自分以外の人間に、何故彼女を殺す必要があるのか。「ハサミ男」は調査をはじめる。精緻にして大胆な長編ミステリの傑作!

 

 自殺願望に苛まれたキモデブ猟奇殺人鬼が主人公という、ちょっと変わった小説である。美少女だけを執拗に狙い、殺人を犯すハサミ男が、犯行手口を真似された挙句にあろうことか、自分のターゲットであるはずの少女を先に殺されてしまう。しかも自分が第1発見者となってしまうという異常な事態に巻き込まれてしまった。偽ハサミ男は何の目的があって少女を殺害したのか、犯行を真似することにどんな意味があるのか。そもそも偽ハサミ男はどこのどいつなのか。ハサミ男は事件の調査に乗り出す。

 

 読んだことがない人のために、ひとつだけ忠告しておくと、ネットで検索してはいけない。すぐにネタバレしてしまうから。絶対にネットで評判を見ずに、すぐに読むことをお勧めする。そして入手後は即座に一気読みすることだ。しかし、焦りは禁物で、比較的ゆっくり読んだ方がよい。うっかり読み飛ばしをしたりすると、この作品の仕掛けに気づくのに時間がかかる可能性がある。ゆっくり、じっくり、だが一気に、というのが『ハサミ男』の正しい読み方だ。焼肉の焼き加減にいちいち口を出す、小うるさいおっさんみたいになってしまったが、『ハサミ男』のすごさをわかってもらいたい一心からの老婆心である。

 

あなたは今までに本を読んで「すげぇー」と叫んだことがあるだろうか。
僕はある。『ハサミ男』を読んだときに。
あなたは今までにあまりの驚きに読んでいた本を落としてしまったことがあるだろうか。
僕はある。『ハサミ男』を読んだときに。
あなたは今までに本を読んで顎関節がはずれたことがあるだろうか。
僕はある。『ハサミ男』を読んだときに。

 

 人生で1、2を争う驚きを必ず体験することができるミステリ小説である。誓っていい。講談社文庫『ハサミ男』はおそらくはどこの書店にも置いてあるものなので、入手は容易だ。持っていなければすぐに買う。そして、402ページまではゆっくり、じっくり読んで欲しい。ここまでは相当念入りに読むことだ。じっくり読めば読むほど403ページの展開に度肝を抜かれるだろう。僕が本を落としたのはまさにこの瞬間であった。あなたはきっと読み返したくなる。また1から読み直してみると良い。あなたは作者に1ページ目からすでに出し抜かれていたことに気づくはずだ。そして、粗探しをしたくなるだろう。どんどん探すと良い。しかし、少しのほころびもない完璧な小説であることに気がつき、また、愕然とするだろう。そして叫び、唸り、認めざるをえない。殊能将之が天才であることを。

 

 だが、同時に後悔するだろう。この作品を超える他の作品を探すのはあまりにも難しい。『ハサミ男』を読んでしまったことは、幸福と同時に悲劇でもある。『ハサミ男』を勧めるのは勇気がいる。勧めた相手から恨まれる可能性が高い。どうしてこんな大傑作を勧めてくれやがったのか、と。

 

 それでも、一縷の希望はあった。殊能将之殊能将之自身に超えてもらえばよいのだ。殊能は『ハサミ男』以後も本当に傑作ばかりを生み出し続けていた。だから、僕は思った。もう一生、殊能作品だけ読めばいいんだ。そしたらいつも驚きをアップデートし続けられる。だが、2013年2月11日にそんな期待も泡となった。殊能将之は逝ってしまったのだ。享年49歳と言われている。

 

 『ハサミ男』と同時代に生まれたことを僕らは喜ぶべきだ。だが、天国の殊能にいささか恨み言を言いたい気もする。どうして傑作ばかり残したのか。おかげで一生彷徨い続ける羽目になってしまったではないか。僕は殊能のおかげで、一生ミステリの森から抜けられそうにない。傑作への渇望が強迫的に僕を捉える。これすらも殊能の仕掛けのひとつなのかもしれない。殊能は本当は生きていて、どこかでひっそりとほくそ笑んでいるのだ。

 

 そうでも思わないと、殊能がもういないという事実を受け入れることは僕にはとても難しい。

 

前回のはこちら。

 

中動態の世界 意志と責任の考古学ーあるいは音楽を聴くことについて

 

 

 國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』は刺激的でスリリングな書物である。こんなにおもしろい思想書を読んだのは久しぶりだった。能動態とも受動態とも違う態「中動態」、失われた態をめぐる言語的・哲学的・思想史的考察はまさに圧巻の一言である。能動でも受動でもない図式で、世界を眺めることの重要性がひしひしと伝わってきた。我々の思考様式は当然ながら様々な文化的制約に縛られているが、言語というのは非常に強固なバイアスである。そこそこのページ数の本だが、我々を既存の言語体系から引き離すためには、これほどのページを使った議論が必要とされるということだろう。実際、國分功一郎の議論は微に入り細を穿つものである。疑問点をひとつひとつ解きほぐしながら、古代ギリシャから現代まで時空を旅するように、色んな哲学者の論に拠りながら、批判的に「能動-受動」の体系を切り崩していく。そして、「中動的」に思考するとはどういうことかに丹念に迫っていくのである。

 

 これがケアの文脈に着想を得ているというのがまたおもしろい。医学書院のシリーズ「ケアをひらく」はびっくりするほどの名著揃いなのだが、またここに1冊の名著が加わった。発売前はもっとケアとリンクする事柄がたくさん書かれているのかと思っていたが、予想とは全く違って原理的な本である。國分はむしろあえて原理的に書くことによって、「中動態」の応用範囲を限定してしまうことを避けているのかもしれない。応用は読者の自由な発想に任せるとでも言っているようだ。

 

 僕は依存症の専門家ではないが、それが薬物療法や教育だけで済んでしまうような疾患でないことはわかる(もちろん幸運にも薬物だけで治る人もいるだろうが)。依存症の治療を難しくするのは、そこに「意志と責任」の問題が介在してくるからだ。よく言われるものに、「アルコールをやめられないのは、あなたの意志が弱いからですよ」というのがある。この心無い発言は、確かに多くの人が言うものだし、情けないことに医療従事者ですら本気でそう思っている人が数多く存在する。だが、依存者の側からすると彼らの思いはそうではない。彼らだって自分の意志で飲みたくて飲んでいるわけでもないし、むしろ意志による飲酒ではないからこそ彼らは心底悩んでいるのである。ここには患者と医療者の齟齬がある。そして齟齬を抱えた治療はどこかに必ず綻びを生ずる。その原因は彼らの言語体系が実は異なる平面に存在しているということにある。患者は「中動態的世界」にいるが、治療者は「能動-受動的世界」で物事を理解しようとしている。

 

 「中動態」を知ることは、ケアに新たな切り口をもたらすだけではない。僕らはいかようにもその概念を活用できるのであって、つまりその活用法は無限にある。
 最近ふと思ったのが、「音楽を聴く」という行為は多分に「中動態的」である。一見すると僕らは自らの意志で聴く楽曲を「主体的に」選び、それをやはり「主体的に」聴いているように見えるが、よく考えるとそうではない。大体、「主体的に」音楽を選ぶというのは不可能ではないだろうか。なぜかというと、ふつうは、どこかで偶然に、本当にふとしたきっかけであるアーティストのある楽曲を耳にするというのが僕らの音楽との出会いの大半である。あるいは、誰かからこの曲いいよと推薦されて聴いてみたり、ネットで誰かが紹介しているから聴いてみたりという形で音楽と出会う。音楽は常に向こうの方からやってくる。だが、その楽曲を聴こうと動いてみるのは自分なのだから、そこには確かに「主体的な」意識が働いているかもしれない。しかし、音楽を聴くという行為のすべてが「主体的に」進むわけではないということはわかるだろう。その行為は明らかに「能動-受動」では捉えきれない何かだ。

 

 また、音楽を聴いている状態というのも考えてみると、我々は本当に音楽を「主体的に」聴いているだろうか。僕らはむしろ音を「主体的に」聴きにいっているというよりは、流れる音に身をまかせているといった方が正しくないだろうか。好きなアーティストの楽曲を聴いているとき、僕らは「個」として存在しているのではなくて、音と融合し、自分と音とが混然一体に溶け合った特異な時空に存在してはいないか。

 

 以上は僕の稚拙な議論だが、僕自身は、この音楽=中動態説を気に入っている。ある楽曲が頭にこびりついて離れない時がある。意識してその音楽を脳内から消し去ろうとすると逆に余計に鳴り響くようになる。それは決して自分の意志ではどうしようもできない。そんな経験が誰にでもあると思う。アルコール依存症というのはまさにそのような状態なのではないだろうか。これも僕の勝手な意見だが、このように考えるとアルコール依存症が、決して「能動-受動」の文脈だけでは理解できないものということがわかりやすくはないだろうか。

 

 恐ろしく売れている本だというのがうれしい。なぜなら中動態は誰もが知ったほうがよい類のものだからである。それを知ることで、意志と責任という文脈だけでは決して語りえない世界を語りうる、新たな文法を我々は手にすることができるのだ。