安楽椅子のモノローグ

完全なる頭でっかちを目指す

メフィスト賞の軌跡―その11 髙里椎奈

Zu Ende sehen, Zu Ende denken

 

【あらすじ】
美男探偵3人組?いいえ実は○×△□です!
見たところ20代後半の爽やかな青年・座木(くらき・通称ザギ)、茶髪のハイティーン超美形少年・秋、元気一杯な赤毛の男の子リベザル。不思議な組み合わせの3人が営む深山木(ふかやまぎ)薬店は探偵稼業が裏の顔。だが、もっと驚くべきことに、彼らの正体は○×△□だった!?謎解きはあくまで本格派をいく第11回メフィスト賞受賞作。
たっぷり雪が積もった小学校の校庭に、一夜にして全長100メートルものミステリーサークルが現れた。雪の妖精あるいは蝶の標本のような輪郭はくっきりと美しく、内側にも外側にも足跡などはいっさい残っていない。だが、雪が溶けたとき、その中央には他殺死体があった!薬屋でもあり○×△□でもある美男探偵トリオが、初めての難事件に挑む!

 

 髙里椎奈の『銀の檻を溶かして』は、妖怪たちが探偵役という何とも不思議なミステリ小説である。身長165㎝と小柄ながら、比類なき美貌を備えた少年・深山木秋、長身痩躯で優しさに溢れた青年・座木、見た目は小学生の元気なポーランド妖怪・リベザル。3人は薬屋を営みながら、裏稼業として、知る人ぞ知る探偵業を行っている。当然、そこには普通の事件の依頼などやってくるはずもない。彼らは妖怪やら悪魔やらの絡んだ珍妙な事件の解決のため奔走する探偵たちなのである。

 

 ある日のこと、彼らの元に悪魔と契約した男がやってくる。市橋厚というその不動産会社員は、仕事熱心なあまり職務遂行のため、うっかり悪魔と契約を結んでしまった。だが、悪魔と契約した人間は願い事をかなえる対価として殺された挙句に魂を奪われてしまうというのだ。契約を後悔した市橋は、秋たちの噂を聞きつけ、悪魔との契約を反故にしてもらうため、薬屋を訪れる。
 同じころ、秋たちの住む街では、小学校に突如出現したミステリーサークルの話でもちきりになっていた。小学校の校庭に一夜にして全長百メートルはあろうかという「雪の妖精」が出現したのだ。これだけでも立派な全国ニュースなのだが、その雪が解けた後、なんとその「雪の妖精」の中から小学生の遺体が発見されたのである。しかも、足跡はどこにも残されていない。いわば巨大なクローズドサークルのお出ましというわけだ。
 一見すると、何の関係もないように見えるこの2つの事件が意外なところでつながり始め・・・。

 

 妖怪の仕業などというと、何でもありのように感じてしまうが、そこはメフィスト賞受賞作である。もちろん妖怪の仕業だけで終わらせるわけがない。どんな解決が用意されているかは読んでのお楽しみである。高里椎奈は、キャラをつくるのが上手だ。妖怪3人たちは、みんな違った個性を持ち合わせていて、妖怪なのにとても人間臭い。その人間臭さがいい味を出していて、事件に対する3者3様のアプローチの違いも見物となっている。3人のうち誰が好みか非常に意見の分かれるところであろう。もちろん3人とも好きになってしまうかもしれない。

 

 全体としてゆるふわな感じでストーリーは進んでいく。謎解きとしても楽しいが、どちらかというと会話重視の小説といった印象だった。西尾維新などはこの系譜の延長上に位置する作家であろう。西尾の作品が好きな人は、きっと高里の作品も好きになれると思う。トリック自体はそれほど唖然とするものではなく、ミステリに長けた読者であれば、ひょっとすると思いついてしまうかもしれない。西尾の作品もそうだが、解決自体に重きが置かれているわけではなくて、解決に向かうまでの道筋で登場するキャラたちの掛け合いこそが醍醐味なのである。


 本作は薬屋探偵妖綺談としてシリーズ化されている。高里椎奈は執筆意欲がとても旺盛で、これ以外にも多くのシリーズ作品を手掛けている。このように一定レベル以上の作品を出版し続けられる能力は驚異的だし、職業作家とはこうあるべきだという、見本のようでもある。本当に尊敬に値する作家である。

 

 ちなみに僕は高里作品では、『祈りの虚月』が好きです。学園ものっていいですよね。

 

聖アステール女学院には、秘密の言い伝えがあった。「神無月の夜、虚月の下で儀式を行うと願いが叶う」
虚月(三日月)の深夜、校舎に忍び込んだ高校生たちは儀式を行うため、暗号めいた名を持つ「三つの鍵」
――「叡智」「願い」「信頼」を探しはじめる。
それぞれが心に秘めていた願いとは? 
そして彼女たちに降りかかる不可思議な事件とは?
高里椎奈が多感な少女たちを描く学園ファンタジー。

 

前回のは、こちら。

メフィスト賞の軌跡―その10 中島望

正義なき力は無能なり、力なき正義もまた無能なり。 

 

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悪の華が咲き乱れる荒廃しきった高校へ転校した少年、逢川総二(あいかわそうじ)は、あの“極真”の達人だった!VS.中国拳法、ボクシング、少林寺拳法、柔道、空手、剣道。激闘は限界を超えて加速する!第10回メフィスト賞受賞、衝撃の新人デビュー作。血と力の神話のアジテーター、梶原一騎の再来か!?

 

 汗と血。

 

 中島望『Kの流儀』には、そのような言葉がふさわしい。小説全体が漢(あえてこう書こう)たちの汗と血で、できていると言ってよい。最初から最後まで暴力によって支配された小説。作者自身も極真空手の門下生である。『Kの流儀』は、まさに漢による漢のための小説なのだ。

 

 筋書きもいたってシンプルである――漢同士の死闘。

 

 極真空手の使い手・逢川総二が、私立赤城高校に転校してくるところから物語は始まる。赤城高校は、暴力の無法地帯といってよいほどの荒れた高校である。そこでは、強きが弱きをくじき、前者が後者を支配する。弱いものに居場所はないのだ。強さは正義であり、強さ以外に正義を表現する術はない。強さだけが唯一にして絶対のパラメータなのである。そんな学校を支配する格闘技の猛者たちと・逢川総二が死闘を繰り広げていく。

 

 しかも、多勢に無勢という状況である。総二の味方は誰一人いない。だが、ほとんどの輩は総二の敵ではない。総二の真の敵は数人の猛者だけである。それでも1対7なのだが!
 武闘派の応援団長、北野了二。少林寺拳法の使い手、狩野莞爾。柔道の達人、込山重太郎。総二と同じ空手家の大迫猛。あらゆる格闘技が揃っている。だが、この4人はほんの序の口に過ぎない。本物の三銃士は最後に控えている。ライトニング・カッターの異名を持つボクサー、相模京一郎。居合で一瞬にして敵を真っ二つにする剣士、荒木但親。そして、最凶最悪の帝王、中国拳法の真壁宗冬。尋常でない強さと精神力と残忍さを兼ね備えた7匹の獣どもが、総二をいたぶり殺すために次々に襲いかかる。

 

 これは和製版ブルース・リーだ。いや、それを超えるといっても過言ではない。生半可な戦いではない。『Kの流儀』で繰り広げられるのは、正真正銘、生きるか死ぬかの戦いである。これが高校生…?と訝る読者多数であろう。だが、設定などという些細なものにこだわっていてはならない。『グラップラー刃牙』を読むのに、誰が設定などにこだわるだろうか。それと同じだ。強大な力の前に、設定など何の意味もなさないのである。手があらぬ方向に折れまがりまるで雑巾のように捻じれていようと、何人もの人間が一瞬のうちにロースハムのごとく切り裂かれようと、構わない。圧倒的なまでの現実離れした描写が、格闘小説や漫画には欠かすことができない。

 

 恋愛模様もある。強い漢というのは、えてして恋愛には晩熟である。総二もその例外にもれず、恋愛経験がゼロである。こんなに孤高で、情け容赦ない男が、恋愛となると振り回されてしまうのだ。しかも、恋愛相手が、帝王・真壁の恋人というのだから、どうなるかは老練な読者ならすぐに推察がつくであろう。

 

 作者は、ちっとも手加減してくれないので要注意だ。一度、読み始めたら最後、読者は修羅の世界をこれでもかと見せつけられることになるだろう。死闘に次ぐ死闘。汗と血が乾く瞬間などないと思ってよい。漢と漢の激突が、最初から最後まで、これほどまでに濃密に書かれた小説は他にない。『Kの流儀』は、最高の格闘エンタテインメントである。

 

 本を読む手に思わず力が入る。血が沸騰するとは、こういうことか、と読者は納得するだろう。『Kの流儀』は、あなたの中の眠った野性を解放し、漢の生き様(たとえ読者が女性でも)を呼び起こしてくれる小説である。

 

前回のは、こちら。

メフィスト賞の軌跡―その9 高田祟史

ある型のウイルスなどに至っては写真も無ければ、当然その姿を見たという人間はいない。しかし、その存在を疑っている科学者もいない上に、治療薬まで用意されている。この現実はどうだ? こちらの方がよほど怪異だ。

 

百人一首カルタのコレクターとして有名な、会社社長・真榊大陸(まさかきだいろく)が自宅で惨殺された。一枚の札を握りしめて……。関係者は皆アリバイがあり、事件は一見、不可能犯罪かと思われた。だが、博覧強記の薬剤師・桑原崇が百人一首に仕掛けられた謎を解いたとき、戦慄の真相が明らかに!?

 

 高田祟史のデビュー作『QED百人一首の呪(しゅ)』は紛れもない傑作である。読んだ者は唖然とするに違いない。

 

 貿易会社社長・真榊大睦が何者かに殺害される。大睦は殺害当日に幽霊を見たと家政婦に告げた。殺害された彼の手には、百人一首の手札が握られていて…。

 

 読めばわかることだが、単なる事件の謎解きではない。本作の射程はそのようなところにはないのだ。本作で解き明かされるのは、百人一首に秘められた謎である。千年以上の時を越え語り継がれる百人一首。僕はその存在はもちろん知っていたが、さほど一生懸命に読んだ覚えはなかった。気がついたときに、手に取ってちらっと目を通すくらいであった。すべての句が頭に入っているわけもなければ、今後入れる予定もない。ただ、最近は漫画『ちはやふる』の影響で、前よりも少しは真剣に目を通すようにはなったが。

 

 実は、百人一首には、隠された暗号があるのではないかという説がある。その先駆的な研究に、1978年に織田正吉が行ったものがある。彼は百人一首には、同じ語句を一首の同じ場所に持つ歌が多いことに着目した。例えば、

 

3.あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む

91.きりぎりすなくや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む

 

などである。また、織田は百人一首の連鎖関係に注目し、タテ18首、ヨコ18首の空間内に百首を配置し直して、暗号を解読しようと試みたりもしている。そうして彼は、藤原定家百人一首の編纂者とされる。当然ながら彼はまた『新古今和歌集』の選者でもある)は百人一首を通じて、後鳥羽上皇への複雑な思いと式子内親王への恋慕の情を表現したのだという結論に達したのである。

 

 その後にも、林直道が別の解釈で、百人一首の暗号を解く試みを行っている。百人一首とは、まさに1個の巨大な歴史ミステリで、上に挙げた2人以外にも多くの人々がそこに隠された暗号を読み解こうと躍起になっている。

 

 そもそも、なぜ百人「一首」なのか? 百人「百首」ではないのか?しかも、百人一首では、詠み手たちのマイナーな作品ばかりが選ばれているという(それが聞きなれた気がするのは国語の教科書で扱われているからに過ぎない)。定家があえてそうしたのはなぜなのか?百人一首の謎は尽きない。

 

 本作で高田祟史が行っているのは、まさに、百人一首の謎解きなのである。資産家殺人事件など、実際には二の次である。数学で例えれば、谷山・志村予想の解決に従い、フェルマーの最終定理が自然と解決されてしまったみたいな(わかりにくいか?)。
 しかし、高田の博識ぶりには舌を巻くばかりだ。国文学者なのか、と勘違いしてしまうほど多彩な知識が披露されている。すぐれたミステリの要素のひとつとして、衒学的要素があるが、大筋に関係ない知識をやたらと並べ立てられてしまうと、ちょっと辟易とすることがある。だが、高田の場合にはそんな気分にはならない。あくまでも百人一首にロックオンし、その謎の解明だけに向かって知識が披露されるので、いやらしさがまったくないのだ。

 

 いうまでもなく、高田の謎解きは(百人一首に対しても、事件そのものに対しても)圧巻だ。百人一首の謎解きだけですら、ちゃんとした書物になりえるほどの論が展開されているが、それをエンタテインメントにまで高めたところは、神業である。これを神業と言わずしてなんと言おう。

 

 本作の探偵役は、薬剤師である桑原祟であるが、高田祟史自身も薬学部出身である。とても薬学部出身とは思えないほど、文学的素養が満載な小説だが、僕はこういう文理の要素をあわせもった作家が大好きだ。科学と文学は相反する存在ではない、ということはもっと強調されてよいと思う。我々はともすると、「文系と理系」、「科学と文学」などといった二分法で世界を切り取ってしまいがちであるが、それらは本来渾然一体としたものなのである。

 

 高田祟史の描くミステリ小説は、我々が無意識のうちに陥っている二分法的見方から我々を解放してくれる。 

 

前回のは、こちら。

メフィスト賞の軌跡―その8 浅暮三文

しかしな、ダブェストンの郵便配達は男の中の男の仕事さ。素人は郵便を出しに行くまでに迷って野垂れ死にしてしまう奴もいる。たまに向こう見ずな馬鹿が郵便泥棒をたくらむが、大抵、野ざらしの骸骨さ。

 

タニアを見かけませんか。僕の彼女でモデルなんですけど、ひどい夢遊病で。ダブエストンだかダブストンだかに探しにきたんです。迷い込むと一生出られない土地なんで心配で。王様?幽霊船?見ないなあ。じゃ急いでるんでお先に。推理作家協会賞受賞作家の原点。メフィスト賞受賞作。

 

 『ダブ(エ)ストン街道』は、メフィスト賞受賞作の中で、際立って異彩を放つ作品である。夢遊癖のために失踪してしまった恋人タニヤを探すために、その恋人ケンが彼女の迷い込んだ幻の島ダブ(エ)ストンを放浪して回るという話である。エに括弧がつけてあるのは、この島の呼び名あるいは表記が一定せず、ダブストンなのかダブエストンなのか、どちらが正式な名称なのか判然としないことによる。ダブ(エ)ストンは、四方を海に囲まれたずいぶん不思議な島である。そこには道しるべになるようなものが何もなく、旅人は文字通り放浪する以外に手段がない。住民たちですら島の全貌を知る者はなく、下手すると何十年も目的地にたどり着くことはできない。頼りになるのは、時折出会う人たちからの情報と勘そして幸運だけなのである。このような幻の島に迷い込んだタニアを探すためにケンもまた迷いながら、あてもない旅を続けていく。

 

 浅暮三文メフィスト賞に迷い込んだかのような作家である。ミステリらしい事件はまったく起きない。サスペンス色溢れる仕立てでもない。メタミステリでもない。SFといえば、SFだが、なんといえばよいか、非常に風変わりな作品なのである。ユーモラスでへんてこな世界観が爆発している。奇妙な王様は出てくるわ、喋る人食いグマは出てくるわ、半魚人は出てくるわ、幽霊船は出てくるわ、メルヘンチックなギミックがほとんどすべて使われている。もちろんメフィスト賞は広義のエンタテインメントを募集する賞なので、どんな作品であってもよいのだが、ここまでミステリ色を一切排除した小説というのも珍しい。しかも、風変わりだ。他にいくらでも応募できる新人賞はあっただろうに、あえてのメフィストというのが、不思議だ。やはり迷い込んでしまったのだろう。

 

 最初は、「本当におもしろいの?」と疑いの気持ち満載で読み始めた。読みなれないジャンルには半信半疑でのぞんでしまうというのが、僕の心の狭さをよく表している。
  確かに、設定を理解するまでは少々骨が折れるといえるだろう。いくつかの別の話が、並行して描かれるので最初はいきなりの場面転換に戸惑うかもしれない。ここであきらめずにしっかりとゆっくり状況を理解しておいた方がよい。しかし、戸惑うとしてもわずか2、3章程度のことにすぎない。いったん、この世界観に慣れ親しんでしまったら、スピードは一気に加速する。それまで、点と点だったダブ(エ)ストンでの出来事たちが次々につながっていく。伏線回収の見事さにはきっと舌を巻くだろう。「おお、これとあれがそんなふうにつながるのか!」と思わず膝を打つ。読後感も実に微妙な余韻を漂わせる仕上がりになっており、締め方も秀逸だ。

 

 本当に風変わりな(何度この言葉を使っただろう)小説だ。少なくとも僕はこのようなテイストの小説を初めて読んだ。しかし、所詮、僕が読んできた本の数などたかが知れているので、こういう作品が他にあるかどうかよくわからなったのだが、あとがきで石田衣良が、こんな風に書いていた。

 

『ダブ(エ)ストン街道』は、類似した小説を探すのが困難なほど奇妙で、風変わりな作品だ。すれっからしの読者ならわかってもらえると思うけれど、書店にはおもしろい本はたくさんあるが、味のある小説は実は数が少ない。

  

 プロの作家から見ても風変わりなのだ。僕が経験したことがあるはずもない。

 

 そのような小説の常であるように、本作にはコアなファンがついているようだ。「復刊ドットコム」では、百票以上の投票を集めた(それが多いか少ないか僕にはわからないけれども)幻のデビュー作と呼ばれている。
 幻とつくものは何でも読んでみたほうがよい、というのが僕の信条である。機会があればぜひみなさんも読んでみてほしい。はずれではないです。絶対に。

 

 浅暮三文には、五感が極限まで研ぎ澄まされた世界を描く、「感覚」シリーズというのもある。これもまた、浅暮三文にしか書きえない独特の世界が描かれており、おすすめである。

 

 

 何度言ったかわからないが、風変わりな小説である。しかし、最後には何とも言えないカタルシスがある。生きるというのは常に迷い続けることなのだ。そして、迷っていいのである。どうしようもない迷いを生きることこそが真の生なのではないか。最後はそんな気にさせられる。文体の醸し出す軽さとは裏腹に深い洞察が本作には存在する。この世界観は浅暮三文にしか描くことができない。
 唯一無二という言葉は浅暮三文のためにある。

 

前回のは、こちら。

量子コンピュータとは何か―理解不能の海を漂う

 量子力学を初めて学んだとき、人はその理論の示す「わけのわからなさ」に強い違和感を覚える。量子というものの特異な振る舞いを受け入れることができるかどうかは、量子力学を制覇する(制覇できたといえる人間が何人いるだろう?)ためのまず最初の壁である。そして、その壁は高い。たとえば、今ではあまりにも有名な「シュレーディンガーの猫」の話。 

 

 

 ミクロの出来事をマクロな比喩で語ろうとする滑稽さがここにはある。しかし、これが猫でなかったとしたら、それが微小な粒子だとしたら、事態はどうなるのだろう。たとえば、1個の原子の自転現象を考えてみる。「時計回り」に回転しつつ「反時計回り」にも回転する原子などというのがありうるのだろうか。僕らはこれについても、やはり「ない」と答えるだろう。とすると、僕らは猫であろうが、原子であろうが、そのような二つの状態の重なり合いを肯定することはできないということになる。結局、僕らはミクロな出来事をミクロな比喩で語ったところで、量子力学を受け入れることには抵抗を感じてしまうというわけだ。マクロの偏見を取り除くのは容易いことではない。

 

 人はいうだろう。「そのような状態の重ね合わせというのは、理論的要請からくるものであることはわかる。だが、納得はできない。どうしても納得させたいならシュレーディンガーの猫を現前させてみせよ」と。実は、シュレーディンガーの猫は、実際に現実のものとなりつつあるといったら驚くだろうか。もちろん、猫のレベルでは到底不可能である。しかし、原子レベルでは実験が成功しているというのだ。

 

 最近、次のような本を読んだ。

 

 

0と1の切り替えの連なり――どんな高性能コンピュータも、根本にあるのはこの原理だ。だが、0と1の状態が「両方同時に」あり得たら? 量子力学に基づいた、一見不可解なこの「重ね合わせ」状態を用いることで可能になる、想像を絶する超高速演算。その実現は科学の大きな進歩を約束する一方、国防や金融を根底から揺るがす脅威ともなりうる……話題の次世代コンピュータの、原理から威力までが一冊でわかる最良の入門書。

 

 量子コンピュータというのは、文字通り、量子の性質を利用して設計されたコンピュータのことである。量子が一体コンピュータのブレイクスルーと何の関係があるというのか。僕はコンピュータの仕組み自体ほとんど知識がないが、精一杯、僕なりの解釈をやってみるとこういうことだろう。
 すなわち、コンピュータとは0と1からなる文字列の処理を行うものである。例えば、あるひとつの文字列(例えば1100010110)は、ある一つの情報に対応していると考えればよい。この情報はすべてのコンピュータで共通であるので、それを入力すれば常に同じ応答が返ってくる。ひとつの文字列にはひとつのスイッチが対応している。だから、この例のように10桁の0と1の並びでコンピュータをつくろうと思ったら、2の10乗=1024個のスイッチを必要とする。文字列が増えれば、当然スイッチの数は幾何級数的に増加していく。
 だが、量子コンピュータならそうではない。なぜかというと量子は0と1を同時にとることができるからだ。したがって、量子コンピュータの場合、さきほどの10桁の0と1の並びを表現するためにはたった10個のスイッチしかいらないこととなる。これは驚異的なことだ。試しに文字列を11桁にしてみれば、驚異がよくわかる。スイッチはたった1個しか増やす必要はない、だが、表現できる文字列は1024から2028に増える。桁数がさらに増えると量子はさらに力を発揮するだろう。スイッチは1個ずつしか増えないのに、表現できる文字列の数は幾何級数的に増加していくのだ。
 演算になると、量子の威力はさらに増す。量子はすべての状態の重ね合わせであるのだから、すべての演算を一気に並列して行うことができる。しかし、従来型のコンピュータでは、1回に行えるのは、ただひとつの演算のみだ。

 

 僕の説明はあまりにも稚拙で下手すぎるだろう。だが、心配はいらない。皆本書を読めばいいのである。僕の説明の100万倍くらい詳しくて、わかりやすい解説が施されてある。

 

 量子コンピュータが完成されれば、我々の生活は一変する。今まで不可能だった素因数分解が一瞬で解かれ、公開鍵暗号はすぐにも破られるかもしれない。はたまた、タンパク質の折りたたみ問題や、セールスマン巡回問題といった「NP完全」問題が解かれるかもしれない。

 

 

 

 量子は、ますます「わけのわからない」ものになっていくような気がする。
 それは一部の人間(僕ではない)にとっては、崇高な数学的原理に基づく物理的存在であり、また、別の人間(僕ではない)にとっては、情報世界に革命をもたらす可能性を秘めた宝の原石であり、さらに別の人間(これが僕である)にとっては、いつまでも知的好奇心をくすぐり続けてくれる遊び道具なのである。

 

 量子の「わけのわからない」海のなかを、僕は、いつまでもたゆたっていたい。

メフィスト賞の軌跡―その7 新堂冬樹

ゴードン・ドライ・ジンもロンリコ・ホワイトも、洒落たカクテルにしては貰えず、私に生(き)のまま飲まれていた。今度はヘルメス・アブサンが、消毒液の代わりにさせられようとしていた。 

 [新堂冬樹]の血塗られた神話 (幻冬舎文庫)

【あらすじ】
 債務者への過酷な徴収から「悪魔」と呼ばれた街金融の経営者・野田秋人の元に、ある日、惨殺された新規客の肉片が届いた。調査を始めた野田に、客を自殺に追い込んだ五年前の記憶が蘇る。そして、事件の影に浮かび上がる、かつて愛した女の名。惨殺は野田に対する復讐の始まりなのか――。金融界に身を置いていた著者のリアリティー溢れる衝撃作。

 

 新堂冬樹といえば、もはや暗黒小説の押しも押されもせぬ大家となった感がある。デビューがメフィスト賞だったいうのは意外だ。この頃のメフィスト賞は、前回までの記事でも書いたように、圧倒的なキワモノ感が強かったのだが、新堂冬樹の受賞で、そういうものばかり受賞させる気でもない、ということがはっきりした。新堂冬樹の受賞は、メフィスト賞にとっての、ひとつの新たな方向性を示したものともいえる。

 

 金融関係で働いていた経歴があるため、本作『血塗られた神話』は、かなりのリアリティを感じさせるような小説に仕上がっている。人間の描き方が、上手い。一人ひとりの人間たちが没個性ではなく、キャラが立っていて、すんなりと人物像が頭の中に入ってくる。さらに、人間のどす黒い欲望や、一筋縄ではいかない者同士の微妙な駆け引きとか、耐え難い後悔の念とか、そういった決して綺麗ではない部分をこれでもかというくらいしっかりと描ききっている。たまらないのは、ミステリ色もきちんと取り入れてくれているところで、本作には、ハウダニット的な要素はさすがにないものの、なぜこのような事件が起きてしまったのかについてのホワイダニット、一体誰が黒幕なのかについてのフーダニット的な要素があって、謎を解く楽しみも味わうことができる。
 初めから終わりまで怒涛の展開が続く。読者は一息たりともつけずに、ページをめくり続けることになるだろう。事態は二転三転、敵味方入り乱れ、興奮冷めやらぬまま物語が一気に終盤まで駆け抜けていく。ハードボイルド感も満載で、ページのそこかしこに紫煙ときついアルコールの匂いが漂っているような錯覚に陥る小説だ。アクションもある。不慣れな読者はあまりの痛みに顔をしかめるかもしれない。エンタテインメント要素が必要十分に配合された、ノンストップハードボイルドノワールサスペンス(こんな冗長な言い方あるかな?)なのである。

 

 かつて「悪魔」と称されていた男・野田秋人の経営する消費者金融の客の男が、ある日殺される。さらに、殺された男のものと思しき肉片が野田の元に届けられた。
 野田には、忘れられない事件があった。5年前に彼の店の客だった男が自殺したのだ。彼はその事件をきっかけに愛する女をひとり置き去りにして、その女のもとを去ってしまった。それは野田にとってのトラウマである。今回の事件は野田に恨みをもつものの犯行なのか? 5年前の記憶と現在がオーバーラップする。警察は野田を疑うが、野田は事件の背後に復讐の匂いを感じとり、独自に調査を始めていく…。

 

 単純に事件が進んでいくだけではない。事件は過去と現在を結びつける役割をしている。共時的な視点と通時的な視点の両方から事件が、そして野田という男とその関係者たちの輪郭が、どんどん浮き彫りになってくる。この野田の過去というのが、本作に時間的な奥行きを与えるのに成功しており、作品が立体感を得ることにもつながっている。

 

 僕は、作品を書くということに、実体験というのは、大して必要ないものだと思っているが、新堂冬樹の作品を読むと、実体験がすごく活かされていて、現場で過ごした経験がなければ書きようがない作品というのも確かにある、と思わされてしまう。特に、こういう消費者金融関係の話なんて、業界に何の関係もない人が書いても、全然現実味を持ちえないだろう。もちろん、そこに新堂冬樹の圧倒的な筆力が加わるからこそ、作品として成立するのであって、単なる経験だけで作品が書けるというわけでは決してない。

 

 新堂冬樹は、実体験を作品に落とし込む能力と、それを物語に仕立て上げる恐るべき筆力を兼ね備えた稀有な作家である。しかも、暗黒面を完全に排した純愛小説も書けるというのだからその才能たるや、いまだ計り知れない。ファンのいう、いわゆる「黒新堂」と「白新堂」であるが、みなさんはどちらがお好みだろうか。ワイン比べをするように、読み比べしてみるのもおもしろいだろう。

 

 すべての暗黒小説がそうであるように、結末は胸をえぐられるようなやるせなさと悲しみが襲ってくる。読者はティッシュペーパーを箱で用意しておいたほうがよい。でないと、涙と鼻汁で顔面が原形をとどめないほどに壊れてしまうかもしれない。あるいは、自分がどうしようもない無法者にでもなれたという勘違いを起こすかもしれない。そんな時でも決して盛り場でいきがったりしないように。ボコボコにされて終わります。

 

 作中にやたらとカブトムシの記述が詳しい箇所がある。ご存じの方も多いかと思うが、新堂は無類の昆虫好きでもある。こういうマニアぶりをちらっと垣間見せるというのが、何ともお茶目である。新堂は、作家兼コンサルタント兼芸能事務所経営者兼昆虫博士という多彩な顔を持つ異色な作家でもあるのだ。メフィスト賞は本当にいい作家を見つけてくれるが、新堂冬樹はその中でも1、2を争う才能の輝きを誇っている。

 

前回のは、こちら

 

メフィスト賞の軌跡―その6 積木鏡介

革製の黒い乗馬靴、黒い胴着、黒い頸布、それに黒いカウボーイハット――黒尽くめの男だ。骨張った頬に、冷酷で残忍そうな細い目(どこかで見たような顔だ)。そして腰に巻かれたガンベルト!
(西部劇のカウボーイ、いや、ガンマン?)
唐突に、男の嗄れた濁声が響いた。
「ストーンウォール・ジャクソンは屑だ」
「えっ!?」

 

【あらすじ】
第6回メフィスト賞受賞作。
「私は確信する、空虚を嘆くべきではないと。私は空虚の意味で無なのではなく、創造者的虚無だ。その無から私自身が創造者として一切を創り出すのだ」(シュティルナー著『唯一者とその所有』より)

全ては何の脈絡も無く唐突に始まった。過去の記憶を全て奪われ、見知らぬ部屋で覚醒した私と女。
舞台は絶海の狐島。3人の惨殺死体。生存者は私と女、そして彼女を狙う正体不明の殺人鬼だけ……の筈だったのに。この島では私達が想像もつかない「何か」が起こっていたのだ。
蘇る死者、嘲笑う生首、闊歩する異形の物ども。あらゆる因果関係から排除された世界──それを冷たく照覧する超越者の眼光。
全ては全能の殺人鬼=<創造主>の膿んだ脳細胞から産まれた、歪んだ天地創造の奇跡だった。

 

 奇書である。
 いわゆるメタミステリだな、というのは読んですぐにわかる。なにせ冒頭がいきなり結末から始まるのだから。そこから時間が巻き戻るようにして結→転→承→起の順に物語が進んでいく。当然のことながら、普通のミステリのような推理や事件解決など期待できない。

 

 本作は、ミステリ創作という行為自体を主題としたメタミステリであり、作中人物だけでなく、作者も小説中に姿を垣間見せる。自らが創造した小説のプロットに作者自身が囚われ、どんな手段を用いてもプロットを完遂させるべく作者があの手この手を弄していく。そこに作中人物も介入し、事態は混沌を極めていくという主旨の小説だ。とにかくやりたい放題、書き散らし放題である。

 

 読者を選ぶ小説である。メフィスト賞なので、濃いのは当たり前だとしても、なかでもとびきりの濃さを醸し出す小説となっている。こういう作品をデビュー作として書き上げてしまうのは、作家にとって、その後の重荷にならないのだろうかと思ってしまう。きっと余計なお世話なのだろうが。しかし、第7回座談会で

 

でも、あと書けなくても、この作品がいま目の前にあることだけでいいのではないか。だから、これから続々メフィスト賞は誕生していきます。

 

とのコメントがある。なるほど、こういう担当者の方針があったから、乾くるみ浦賀和宏積木鏡介という作家たちのデビューがあったのだな、と妙に納得した。彼らはもしかしたら一発屋になっていたとしても何らおかしくない作家だったのではないか。だが、書き手が新世代なら読み手だって新世代なのだ。彼らを受け入れるための素地は十分にできていたのだ。彼らはみな一発屋にはならなかった。

 

 メタミステリ、あるいはアンチミステリというのは、ジャンルを明確にするのが難しい。どこからがメタでどこからが非メタなのか、それは結構主観的な区分である。日本には、『黒死館殺人事件』、『虚無への供物』、『ドグラ・マグラ』、『匣の中の失楽』という世界に誇る四大アンチミステリが存在するが、これらはどれもすべてテイストが異なる(『虚無』と『匣』は近しいが)。もし、『歪んだ創世記』を読んで面白いと感じた読者は、これらも読んでみるとよいだろう。アンチミステリの旅に出かけるというのもなかなかオツなものである。

 

 積木鏡介は、和光大学出身であるが、この和光大学というのが、侮れない大学だ。数々の個性的有名人を輩出する大学で、出身者には、漫画家でいうと、大場つぐみ(『DEATH NOTE』)、岩明均(『寄生獣』)、松本大洋(『ピンポン』)、吉田戦車(『伝染るんです。』)がいて、作家で言うと、虚淵玄(『魔法少女まどか☆マギカ』)、前田司郎(劇団五反田団主宰)、笠井潔(『サマー・アポカリプス』)そして積木鏡介がいる。この他にも有名人多数である。大学のスローガンは「異質力で、輝く。和光大学」というから、そりゃあ個性が育つわけだ。しかも、平凡な個性ではない。

 最近あまり活動していないなと思っていたら、清涼院流水主宰の「The BBB」で、電子書籍を出版している。都市伝説刑事という興味をそそられる書籍だが、僕は未読である。ぜひ読んでみたい。

 [積木鏡介]の都市伝説刑事 事件1: メリーさんのメール (The BBB: Breakthrough Bandwagon Books)

 乾くるみ浦賀和宏積木鏡介は、みんな既存のミステリに対する挑戦ともとれる小説を書きデビューした。強力な個性とミステリ界に一石を投じてやろうという気概が感じられる作品ばかりである。特に、積木の小説は、型破りだ。既存のミステリに飽きたという読者にこそ、おすすめの一冊である。きっと、新しい世界へあなたを誘ってくれることだろう。

 

 最後に、大切な助言を。表紙カバーは決して捨ててはならない。本のすべてが小説世界の一部であるから。

 

乾くるみ浦賀和宏も合わせて読むと、新たな発見があるかもしれません。