安楽椅子のモノローグ

完全なる頭でっかちを目指す

メフィスト賞の軌跡ーその12 霧舎巧

面白い、ドッペルゲンガーの館というわけか

 

 「館」と聞けば、ミステリファンなら涎が出るほどの大好物である。僕のような、にわかファンにも心に残る館ものはいくつかある。島田荘二『斜め屋敷の犯罪』、綾辻行人十角館の殺人』、鮎川哲也『リラ荘殺人事件』。古典でいくとヴァン・ダイン『グリーン家殺人事件』などもいい。これらについてもいずれ語ることになるだろう。世に館ものは多くあり、これだけあればもう新しいトリックを思いつくのは不可能ではないかと感じてしまうが、いまだに館ものは色んな作家によって発表され続けている。きっとこういった王道にいかに挑戦するかというのが彼らのチャレンジ精神なのだろう。

 

 霧舎巧のデビュー作『ドッペルゲンガー宮《あかずの扉》研究会流氷館へ』は、タイトルからすぐに察せられる通り、館ものである。

 

【あらすじ】

《開かずの扉》の向こう側に――本格推理の宝物がある北澤大学新入生のぼく=二本松飛翔(かける)は、サークル≪あかずの扉≫研究会に入会した。自称名探偵、特技は解錠などクセ者ぞろいのメンバー6人が、尖塔の屹立(きつりつ)する奇怪な洋館“流氷館”を訪れた時、恐るべき惨劇の幕が開く。閉鎖状況での連続殺人と驚愕の第トリック! 本格推理魂あふれる第12回メフィスト賞受賞作。 

 

 《あかずの扉》研究会という学生サークルにひょんなことから女子高生・氷室 涼香捜索の依頼が舞い込む。涼香の実家は流氷館という巨大な邸宅なのだが、彼女は実家へ帰省したきり学校に姿を現さなくなってしまったというのだ。どうやら涼香はいじめを受けていたらしいのだが…。
 サークルのメンバーで自称名探偵の鳴海 雄一郎は、一足先に流氷館へ乗り込んでいく。そこでは、流氷館の当主にして涼香の祖父である氷室 流侃(ひむろ りゅうかん)によって、推理イベントが開催されようとしていた。イベントには涼香いじめの張本人である中尾 美鈴も招かれており、なにやら不穏な空気が流れていた。
 《あかずの扉》研究会の残りのメンバーは翌日鳴海の後を追い、流氷館へと向かう。鳴海とは途中から連絡が取れなくなっていた。彼らの脳裏に一抹の不安がよぎる。ようやく彼らがたどり着いた流氷館は、しかし、無人の館であり、ふたつの首なし死体が残されていた。鳴海と無事連絡がとれた一行は、ほっと胸を安堵するが、鳴海は自分のいる場所は流氷館だという。どうやら鳴海のいる館と《あかずの扉》研究会の残りメンバーのいる館は作りの全く同じ館であるらしい。流氷館は2つ存在する? まさにドッペルゲンガー宮である。
 そして鳴海は2つの生首を発見する。だが、それは殺戮劇のほんの始まりに過ぎなかった…。

 

 がちがちの本格である。分厚い本だが、厚さは全く気にならない。霧舎巧の文章は読みやすく、ストーリーもわかりやすくてすんなりと頭に入ってくる。登場人物も愛らしいキャラクターばかりで、ラブコメ要素も織り交ぜてくるという素晴らしさ。そして、それすらも事件解決のカギを握っている。事件の全貌はすべて読者に提示される。挑戦状こそないが、推理しようと思えば、読者はいくらでも推理可能だ。だが、きっと真相にはたどり着けないだろう。とても複雑で、難解なパズルのような面白さがある。

 

 推理は2転3転していく。めまぐるしく展開される論理的推理の応酬に、読者はついていくことができるだろうか。僕は読むのに相当頭をひねった。だが、読後のすがすがしさは何とも言えない。重労働後の解放感と似たような、気だるくも、俺やり遂げた! という満足感を伴うあの感じである。気持ちよかったなあ。

 

多くの館ものの名作にひけをとらない新しい名作である(といっても1999年なので、もはや古典といわれるかもしれないが)。

 

前回のは、こちら。

フラジャイル

 医療漫画と言えば、『ブラックジャック』、『スーパードクターK』、『ゴッドハンド輝』、『医龍』などこれまでにも数々の名作はあった。これらの主人公はすべて外科医である。ふつう「外科」と単純にいえば「消化器外科」を指す場合が多いが、これらの主人公たちはそのような専門には全くこだわりがないように見える。彼らはみな天才的なジェネラリストであり、いかにも万人受けするような「神の手」の持ち主ばかりだ。医療漫画の定番はやはり手術なのである。

 

 しかし、最近ではどうも風向きが変わってきているようだ。その走りはやはり『ブラックジャックによろしく』だろうか。主人公は研修医である。研修医がスーパーローテートしていく中で出会う医療現場の矛盾に苦悩しつつ、成長していく様子が描かれている。それまでの医療漫画とは、一線を画す切り口が斬新だった。神の手など持っているはずもない。しかし、普通だからこそ抱える悩みや怒りを描くことが可能になる。そのような悩みは心ある研修医なら誰もが遭遇する類のものである。

 

 近年では他にもドラマとしてもかなりの人気を博している産科医が主人公の『コウノドリ』。麻酔科医の仕事とプライベートを描く『麻酔科医ハナ』。放射線技師を主人公にした『ラジエーション・ハウス』などなど今までは積極的に取り上げられることのなかった医療系従事者にスポットを当てた作品が多くなってきている。これらはしかもかなりリアルだ。もちろん漫画であるからには多少の脚色はあるとして、それらを差し引いたとしてもリアルな部分の割合は多く残る。

 

 そしてしんがりは我らが『フラジャイル』である。

 

 

 

病理医という希少な生き物をよくぞ取り上げた、その慧眼たるや恐るべしである。一般人に対する知名度は、高くないどころか低いといって間違いないほどである。ましてや、何をしている医師か(医師免許を持っていることすら知らないかもしれない)答えられる人はわずかだろう。それでも、最近は色んな人の活動によって、少しずつ人口に膾炙しつつある兆しが見えてきた。そのような人たちの活躍については、今後ブログに記すこととしている。

 

 新刊が先ごろ発売されたばかりだが、本当にいい話だった。一言でいえば泣ける。病理医というのは、顕微鏡を見て腫瘍の良悪を判定するのが主な業務のひとつだが、なるほど腫瘍とそんな風な関わり方もあるのか、と目から鱗の思いであった。岸先生、とてつもなくクールな男なんだけれど、どうしてなかなか熱い医者じゃないか!と彼の違った一面が描かれていて今までの話の中でも、特に好きな話のひとつになった。

 

 『フラジャイル』の何がすごいかって、登場人物が一人残らず魅力的だということだ。敵も味方もみんなそう。腹の中で本当は何を考えているかよくわからない奴らがわんさか出てくるが、皆その人なりの正義や信念を持っている。そして、その正義や信念を実現するために、困難などものともしない生き方を貫き通す様が実に丹念に描かれている。巻を進めるごとに、登場人物のこれまでにない一面が描き出され、悪役にも思わず感情移入してしまう瞬間があったりするのが、うまいなあ、と思う。

 

 『フラジャイル』は、病理医を主人公とした漫画だが、病理検査室だけの世界を描いた作品ではない。もっと、広い視野をもち、医療全体にかかわるテーマを扱った名作なのである。病理医不足の問題、製薬会社と医療の癒着、病院経営と医療のバランスの問題などといった多彩なテーマが扱われ、現代医療のキーポイントがかなりのリアリティをもって描かれる。もちろん、病理医って何?と思った人にとっては、うってつけの病理医紹介漫画でもある。どんな観点からでも楽しめるので、読んだことのない方は一読の価値ありの漫画である。

 

 いくら褒めても褒め尽きることがない。病理医ってすごいでしょ、とか、病理医のこともっと知ってとか、そういうのは全くどうでもよくて、ただひとつの作品として素晴らしい。だからぜひ『フラジャイル』を読んで欲しいと思う。

独物語ーたぶんその4

 最近(確か11月21日)のほぼ日「今日のダーリン」で糸井重里さんが、自分はずっと新人だったということを書かれていた。

 

 「今日のダーリン」というのは、糸井重里らしさがすごく出ていて、文章はすごく平易で柔らかいのだけれど、そこで述べられていることは非常に深い。これがプロの物書きなんだなあ、といつも感嘆してしまう。いかにもな名言を大上段からビシッと決めるんじゃなくて、こちらが何も身構えせずに読めるような、向こうからそっと手を差し伸べてくれるようなそんな文章だ。寄り添いとでも言えばいいんだろうか。

 

 僕が感嘆するのは、これほどまでに平易な言葉で、しかも、しっかりと人の心に届く文章を、毎日書けるということだ。平易な文章だから書くのは簡単だろう、なんてことにはならない。実際に僕は平易な文章ばかり書いているが、決して書くのは簡単ではない。こんな文章を書くのに何十分かかっているんだ、と自分で自分にツッコミを入れるほどである。ましてや、それが人の心に届いているなんて自惚れを持つことさえできない。だが、こんな僕の書く記事でも読んでいただける読者がいることには、本当に感謝している。

 

 それでも、とても毎日文章を書くというのは不可能だ。文章を書くという作業は、案外疲れる作業である。自分でブログをやるようになって気づいたのだが、文章を書くのは容易い作業のように見えて、実は結構重労働である。あまりにも疲れすぎて、免疫力の低下が起こっているのではないかと思うときさえあるくらいだ。文章を書くというのは、あるときにはきっと精神を安定させるような作用があるが、あるときには逆に心をひどく疲れさせるような作用も及ぼすのだと思う。

 

 以上のことはもしかすると僕が文章を書くということに不慣れなことからくるものなのかもしれない。ブログを10年20年と続けていけば、また違った風景が見えてくるのだろうか。

 

 ところで、僕も自分の人生を振り返ったとき、いつも新人であるということにはっと気がつき、思わず「エウレカ!」と叫んでしまった。新人具合でいうと、僕も糸井さんに負けるものではないだろう。これはきっといい勝負になるのではないか。などと言うと、糸井ファンからは怒られるかもしれないが、確かにずっと新人なのです。それで誰かに何かを威張れるようなものでもないし、常にチャレンジャーであるなどと野暮なことを言いたいわけでもない。大体、ずっと新人であり続けることがいいことであるわけがない。デメリット盛りだくさんである。普通に考えて、新人のエンドレスリピートの人生なんて、誰も過ごしたいとは思わないだろう。永劫回帰など単なる苦痛以外の何ものでもない。と、今の僕は思っている。

 

 ただ、僕の周囲には自ら新人になることを積極的にやっている人が多いのは確かである。そして、それらの方々はみなさんとても格好いい。中には定年後の人もいる。僕がどうであるかは別としても、新人であることは、ずっと若くいることなのかもしれないと思う。新人のエンドレスリピートだっていいじゃないか、とその人たちは言うかもしれない。僕はそんな気持ちにはまだなれないけれど、新人ライフを性懲りもなく続けていけば、格好いい老人になれるのだろうか。40年後の僕はどう思っているだろう。

 

 今日はとてもとりとめのないことを書いた。とりとめのない文章を書くのは、とても気分がいい。

メフィスト賞の軌跡―その11 髙里椎奈

Zu Ende sehen, Zu Ende denken

 

【あらすじ】
美男探偵3人組?いいえ実は○×△□です!
見たところ20代後半の爽やかな青年・座木(くらき・通称ザギ)、茶髪のハイティーン超美形少年・秋、元気一杯な赤毛の男の子リベザル。不思議な組み合わせの3人が営む深山木(ふかやまぎ)薬店は探偵稼業が裏の顔。だが、もっと驚くべきことに、彼らの正体は○×△□だった!?謎解きはあくまで本格派をいく第11回メフィスト賞受賞作。
たっぷり雪が積もった小学校の校庭に、一夜にして全長100メートルものミステリーサークルが現れた。雪の妖精あるいは蝶の標本のような輪郭はくっきりと美しく、内側にも外側にも足跡などはいっさい残っていない。だが、雪が溶けたとき、その中央には他殺死体があった!薬屋でもあり○×△□でもある美男探偵トリオが、初めての難事件に挑む!

 

 髙里椎奈の『銀の檻を溶かして』は、妖怪たちが探偵役という何とも不思議なミステリ小説である。身長165㎝と小柄ながら、比類なき美貌を備えた少年・深山木秋、長身痩躯で優しさに溢れた青年・座木、見た目は小学生の元気なポーランド妖怪・リベザル。3人は薬屋を営みながら、裏稼業として、知る人ぞ知る探偵業を行っている。当然、そこには普通の事件の依頼などやってくるはずもない。彼らは妖怪やら悪魔やらの絡んだ珍妙な事件の解決のため奔走する探偵たちなのである。

 

 ある日のこと、彼らの元に悪魔と契約した男がやってくる。市橋厚というその不動産会社員は、仕事熱心なあまり職務遂行のため、うっかり悪魔と契約を結んでしまった。だが、悪魔と契約した人間は願い事をかなえる対価として殺された挙句に魂を奪われてしまうというのだ。契約を後悔した市橋は、秋たちの噂を聞きつけ、悪魔との契約を反故にしてもらうため、薬屋を訪れる。
 同じころ、秋たちの住む街では、小学校に突如出現したミステリーサークルの話でもちきりになっていた。小学校の校庭に一夜にして全長百メートルはあろうかという「雪の妖精」が出現したのだ。これだけでも立派な全国ニュースなのだが、その雪が解けた後、なんとその「雪の妖精」の中から小学生の遺体が発見されたのである。しかも、足跡はどこにも残されていない。いわば巨大なクローズドサークルのお出ましというわけだ。
 一見すると、何の関係もないように見えるこの2つの事件が意外なところでつながり始め・・・。

 

 妖怪の仕業などというと、何でもありのように感じてしまうが、そこはメフィスト賞受賞作である。もちろん妖怪の仕業だけで終わらせるわけがない。どんな解決が用意されているかは読んでのお楽しみである。高里椎奈は、キャラをつくるのが上手だ。妖怪3人たちは、みんな違った個性を持ち合わせていて、妖怪なのにとても人間臭い。その人間臭さがいい味を出していて、事件に対する3者3様のアプローチの違いも見物となっている。3人のうち誰が好みか非常に意見の分かれるところであろう。もちろん3人とも好きになってしまうかもしれない。

 

 全体としてゆるふわな感じでストーリーは進んでいく。謎解きとしても楽しいが、どちらかというと会話重視の小説といった印象だった。西尾維新などはこの系譜の延長上に位置する作家であろう。西尾の作品が好きな人は、きっと高里の作品も好きになれると思う。トリック自体はそれほど唖然とするものではなく、ミステリに長けた読者であれば、ひょっとすると思いついてしまうかもしれない。西尾の作品もそうだが、解決自体に重きが置かれているわけではなくて、解決に向かうまでの道筋で登場するキャラたちの掛け合いこそが醍醐味なのである。


 本作は薬屋探偵妖綺談としてシリーズ化されている。高里椎奈は執筆意欲がとても旺盛で、これ以外にも多くのシリーズ作品を手掛けている。このように一定レベル以上の作品を出版し続けられる能力は驚異的だし、職業作家とはこうあるべきだという、見本のようでもある。本当に尊敬に値する作家である。

 

 ちなみに僕は高里作品では、『祈りの虚月』が好きです。学園ものっていいですよね。

 

聖アステール女学院には、秘密の言い伝えがあった。「神無月の夜、虚月の下で儀式を行うと願いが叶う」
虚月(三日月)の深夜、校舎に忍び込んだ高校生たちは儀式を行うため、暗号めいた名を持つ「三つの鍵」
――「叡智」「願い」「信頼」を探しはじめる。
それぞれが心に秘めていた願いとは? 
そして彼女たちに降りかかる不可思議な事件とは?
高里椎奈が多感な少女たちを描く学園ファンタジー。

 

前回のは、こちら。

メフィスト賞の軌跡―その10 中島望

正義なき力は無能なり、力なき正義もまた無能なり。 

 

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悪の華が咲き乱れる荒廃しきった高校へ転校した少年、逢川総二(あいかわそうじ)は、あの“極真”の達人だった!VS.中国拳法、ボクシング、少林寺拳法、柔道、空手、剣道。激闘は限界を超えて加速する!第10回メフィスト賞受賞、衝撃の新人デビュー作。血と力の神話のアジテーター、梶原一騎の再来か!?

 

 汗と血。

 

 中島望『Kの流儀』には、そのような言葉がふさわしい。小説全体が漢(あえてこう書こう)たちの汗と血で、できていると言ってよい。最初から最後まで暴力によって支配された小説。作者自身も極真空手の門下生である。『Kの流儀』は、まさに漢による漢のための小説なのだ。

 

 筋書きもいたってシンプルである――漢同士の死闘。

 

 極真空手の使い手・逢川総二が、私立赤城高校に転校してくるところから物語は始まる。赤城高校は、暴力の無法地帯といってよいほどの荒れた高校である。そこでは、強きが弱きをくじき、前者が後者を支配する。弱いものに居場所はないのだ。強さは正義であり、強さ以外に正義を表現する術はない。強さだけが唯一にして絶対のパラメータなのである。そんな学校を支配する格闘技の猛者たちと・逢川総二が死闘を繰り広げていく。

 

 しかも、多勢に無勢という状況である。総二の味方は誰一人いない。だが、ほとんどの輩は総二の敵ではない。総二の真の敵は数人の猛者だけである。それでも1対7なのだが!
 武闘派の応援団長、北野了二。少林寺拳法の使い手、狩野莞爾。柔道の達人、込山重太郎。総二と同じ空手家の大迫猛。あらゆる格闘技が揃っている。だが、この4人はほんの序の口に過ぎない。本物の三銃士は最後に控えている。ライトニング・カッターの異名を持つボクサー、相模京一郎。居合で一瞬にして敵を真っ二つにする剣士、荒木但親。そして、最凶最悪の帝王、中国拳法の真壁宗冬。尋常でない強さと精神力と残忍さを兼ね備えた7匹の獣どもが、総二をいたぶり殺すために次々に襲いかかる。

 

 これは和製版ブルース・リーだ。いや、それを超えるといっても過言ではない。生半可な戦いではない。『Kの流儀』で繰り広げられるのは、正真正銘、生きるか死ぬかの戦いである。これが高校生…?と訝る読者多数であろう。だが、設定などという些細なものにこだわっていてはならない。『グラップラー刃牙』を読むのに、誰が設定などにこだわるだろうか。それと同じだ。強大な力の前に、設定など何の意味もなさないのである。手があらぬ方向に折れまがりまるで雑巾のように捻じれていようと、何人もの人間が一瞬のうちにロースハムのごとく切り裂かれようと、構わない。圧倒的なまでの現実離れした描写が、格闘小説や漫画には欠かすことができない。

 

 恋愛模様もある。強い漢というのは、えてして恋愛には晩熟である。総二もその例外にもれず、恋愛経験がゼロである。こんなに孤高で、情け容赦ない男が、恋愛となると振り回されてしまうのだ。しかも、恋愛相手が、帝王・真壁の恋人というのだから、どうなるかは老練な読者ならすぐに推察がつくであろう。

 

 作者は、ちっとも手加減してくれないので要注意だ。一度、読み始めたら最後、読者は修羅の世界をこれでもかと見せつけられることになるだろう。死闘に次ぐ死闘。汗と血が乾く瞬間などないと思ってよい。漢と漢の激突が、最初から最後まで、これほどまでに濃密に書かれた小説は他にない。『Kの流儀』は、最高の格闘エンタテインメントである。

 

 本を読む手に思わず力が入る。血が沸騰するとは、こういうことか、と読者は納得するだろう。『Kの流儀』は、あなたの中の眠った野性を解放し、漢の生き様(たとえ読者が女性でも)を呼び起こしてくれる小説である。

 

前回のは、こちら。

メフィスト賞の軌跡―その9 高田祟史

ある型のウイルスなどに至っては写真も無ければ、当然その姿を見たという人間はいない。しかし、その存在を疑っている科学者もいない上に、治療薬まで用意されている。この現実はどうだ? こちらの方がよほど怪異だ。

 

百人一首カルタのコレクターとして有名な、会社社長・真榊大陸(まさかきだいろく)が自宅で惨殺された。一枚の札を握りしめて……。関係者は皆アリバイがあり、事件は一見、不可能犯罪かと思われた。だが、博覧強記の薬剤師・桑原崇が百人一首に仕掛けられた謎を解いたとき、戦慄の真相が明らかに!?

 

 高田祟史のデビュー作『QED百人一首の呪(しゅ)』は紛れもない傑作である。読んだ者は唖然とするに違いない。

 

 貿易会社社長・真榊大睦が何者かに殺害される。大睦は殺害当日に幽霊を見たと家政婦に告げた。殺害された彼の手には、百人一首の手札が握られていて…。

 

 読めばわかることだが、単なる事件の謎解きではない。本作の射程はそのようなところにはないのだ。本作で解き明かされるのは、百人一首に秘められた謎である。千年以上の時を越え語り継がれる百人一首。僕はその存在はもちろん知っていたが、さほど一生懸命に読んだ覚えはなかった。気がついたときに、手に取ってちらっと目を通すくらいであった。すべての句が頭に入っているわけもなければ、今後入れる予定もない。ただ、最近は漫画『ちはやふる』の影響で、前よりも少しは真剣に目を通すようにはなったが。

 

 実は、百人一首には、隠された暗号があるのではないかという説がある。その先駆的な研究に、1978年に織田正吉が行ったものがある。彼は百人一首には、同じ語句を一首の同じ場所に持つ歌が多いことに着目した。例えば、

 

3.あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む

91.きりぎりすなくや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む

 

などである。また、織田は百人一首の連鎖関係に注目し、タテ18首、ヨコ18首の空間内に百首を配置し直して、暗号を解読しようと試みたりもしている。そうして彼は、藤原定家百人一首の編纂者とされる。当然ながら彼はまた『新古今和歌集』の選者でもある)は百人一首を通じて、後鳥羽上皇への複雑な思いと式子内親王への恋慕の情を表現したのだという結論に達したのである。

 

 その後にも、林直道が別の解釈で、百人一首の暗号を解く試みを行っている。百人一首とは、まさに1個の巨大な歴史ミステリで、上に挙げた2人以外にも多くの人々がそこに隠された暗号を読み解こうと躍起になっている。

 

 そもそも、なぜ百人「一首」なのか? 百人「百首」ではないのか?しかも、百人一首では、詠み手たちのマイナーな作品ばかりが選ばれているという(それが聞きなれた気がするのは国語の教科書で扱われているからに過ぎない)。定家があえてそうしたのはなぜなのか?百人一首の謎は尽きない。

 

 本作で高田祟史が行っているのは、まさに、百人一首の謎解きなのである。資産家殺人事件など、実際には二の次である。数学で例えれば、谷山・志村予想の解決に従い、フェルマーの最終定理が自然と解決されてしまったみたいな(わかりにくいか?)。
 しかし、高田の博識ぶりには舌を巻くばかりだ。国文学者なのか、と勘違いしてしまうほど多彩な知識が披露されている。すぐれたミステリの要素のひとつとして、衒学的要素があるが、大筋に関係ない知識をやたらと並べ立てられてしまうと、ちょっと辟易とすることがある。だが、高田の場合にはそんな気分にはならない。あくまでも百人一首にロックオンし、その謎の解明だけに向かって知識が披露されるので、いやらしさがまったくないのだ。

 

 いうまでもなく、高田の謎解きは(百人一首に対しても、事件そのものに対しても)圧巻だ。百人一首の謎解きだけですら、ちゃんとした書物になりえるほどの論が展開されているが、それをエンタテインメントにまで高めたところは、神業である。これを神業と言わずしてなんと言おう。

 

 本作の探偵役は、薬剤師である桑原祟であるが、高田祟史自身も薬学部出身である。とても薬学部出身とは思えないほど、文学的素養が満載な小説だが、僕はこういう文理の要素をあわせもった作家が大好きだ。科学と文学は相反する存在ではない、ということはもっと強調されてよいと思う。我々はともすると、「文系と理系」、「科学と文学」などといった二分法で世界を切り取ってしまいがちであるが、それらは本来渾然一体としたものなのである。

 

 高田祟史の描くミステリ小説は、我々が無意識のうちに陥っている二分法的見方から我々を解放してくれる。 

 

前回のは、こちら。

メフィスト賞の軌跡―その8 浅暮三文

しかしな、ダブェストンの郵便配達は男の中の男の仕事さ。素人は郵便を出しに行くまでに迷って野垂れ死にしてしまう奴もいる。たまに向こう見ずな馬鹿が郵便泥棒をたくらむが、大抵、野ざらしの骸骨さ。

 

タニアを見かけませんか。僕の彼女でモデルなんですけど、ひどい夢遊病で。ダブエストンだかダブストンだかに探しにきたんです。迷い込むと一生出られない土地なんで心配で。王様?幽霊船?見ないなあ。じゃ急いでるんでお先に。推理作家協会賞受賞作家の原点。メフィスト賞受賞作。

 

 『ダブ(エ)ストン街道』は、メフィスト賞受賞作の中で、際立って異彩を放つ作品である。夢遊癖のために失踪してしまった恋人タニヤを探すために、その恋人ケンが彼女の迷い込んだ幻の島ダブ(エ)ストンを放浪して回るという話である。エに括弧がつけてあるのは、この島の呼び名あるいは表記が一定せず、ダブストンなのかダブエストンなのか、どちらが正式な名称なのか判然としないことによる。ダブ(エ)ストンは、四方を海に囲まれたずいぶん不思議な島である。そこには道しるべになるようなものが何もなく、旅人は文字通り放浪する以外に手段がない。住民たちですら島の全貌を知る者はなく、下手すると何十年も目的地にたどり着くことはできない。頼りになるのは、時折出会う人たちからの情報と勘そして幸運だけなのである。このような幻の島に迷い込んだタニアを探すためにケンもまた迷いながら、あてもない旅を続けていく。

 

 浅暮三文メフィスト賞に迷い込んだかのような作家である。ミステリらしい事件はまったく起きない。サスペンス色溢れる仕立てでもない。メタミステリでもない。SFといえば、SFだが、なんといえばよいか、非常に風変わりな作品なのである。ユーモラスでへんてこな世界観が爆発している。奇妙な王様は出てくるわ、喋る人食いグマは出てくるわ、半魚人は出てくるわ、幽霊船は出てくるわ、メルヘンチックなギミックがほとんどすべて使われている。もちろんメフィスト賞は広義のエンタテインメントを募集する賞なので、どんな作品であってもよいのだが、ここまでミステリ色を一切排除した小説というのも珍しい。しかも、風変わりだ。他にいくらでも応募できる新人賞はあっただろうに、あえてのメフィストというのが、不思議だ。やはり迷い込んでしまったのだろう。

 

 最初は、「本当におもしろいの?」と疑いの気持ち満載で読み始めた。読みなれないジャンルには半信半疑でのぞんでしまうというのが、僕の心の狭さをよく表している。
  確かに、設定を理解するまでは少々骨が折れるといえるだろう。いくつかの別の話が、並行して描かれるので最初はいきなりの場面転換に戸惑うかもしれない。ここであきらめずにしっかりとゆっくり状況を理解しておいた方がよい。しかし、戸惑うとしてもわずか2、3章程度のことにすぎない。いったん、この世界観に慣れ親しんでしまったら、スピードは一気に加速する。それまで、点と点だったダブ(エ)ストンでの出来事たちが次々につながっていく。伏線回収の見事さにはきっと舌を巻くだろう。「おお、これとあれがそんなふうにつながるのか!」と思わず膝を打つ。読後感も実に微妙な余韻を漂わせる仕上がりになっており、締め方も秀逸だ。

 

 本当に風変わりな(何度この言葉を使っただろう)小説だ。少なくとも僕はこのようなテイストの小説を初めて読んだ。しかし、所詮、僕が読んできた本の数などたかが知れているので、こういう作品が他にあるかどうかよくわからなったのだが、あとがきで石田衣良が、こんな風に書いていた。

 

『ダブ(エ)ストン街道』は、類似した小説を探すのが困難なほど奇妙で、風変わりな作品だ。すれっからしの読者ならわかってもらえると思うけれど、書店にはおもしろい本はたくさんあるが、味のある小説は実は数が少ない。

  

 プロの作家から見ても風変わりなのだ。僕が経験したことがあるはずもない。

 

 そのような小説の常であるように、本作にはコアなファンがついているようだ。「復刊ドットコム」では、百票以上の投票を集めた(それが多いか少ないか僕にはわからないけれども)幻のデビュー作と呼ばれている。
 幻とつくものは何でも読んでみたほうがよい、というのが僕の信条である。機会があればぜひみなさんも読んでみてほしい。はずれではないです。絶対に。

 

 浅暮三文には、五感が極限まで研ぎ澄まされた世界を描く、「感覚」シリーズというのもある。これもまた、浅暮三文にしか書きえない独特の世界が描かれており、おすすめである。

 

 

 何度言ったかわからないが、風変わりな小説である。しかし、最後には何とも言えないカタルシスがある。生きるというのは常に迷い続けることなのだ。そして、迷っていいのである。どうしようもない迷いを生きることこそが真の生なのではないか。最後はそんな気にさせられる。文体の醸し出す軽さとは裏腹に深い洞察が本作には存在する。この世界観は浅暮三文にしか描くことができない。
 唯一無二という言葉は浅暮三文のためにある。

 

前回のは、こちら。