柄谷行人―まずはここからはじめよう
柄谷行人の文体には魅力がある。僕が柄谷の著作を読み漁ったのは、何よりもその文体に取り憑かれたからに他ならない。もちろん、彼のアイデアや思想に共鳴したというのも理由として、あるにはある。しかし、それは理由の一番にはならない。
そもそも、人が思想書や哲学書を読もうとするとき、彼/彼女らは、何によって書物を選ぶのだろうか? 彼/彼女らの抱える知への希求、自分では如何ともしがたい心の咆哮あるいは猛獣のような煩悶に、静謐な安寧を(たとえそれが一瞬のことであったとて)与えるのは思想家の何か?
人が書物を手に取り、ページを繰って初めて出会うのは、思想ではない。それは文体なのである。書物の最初の1行に思想はない。そこにあるのは、これから語られようとする思想の香りである。思想と文体の関係は、コーヒーとその香りの関係に似ている。思想がコーヒーそのものであるとすれば、文体とはコーヒーの香りである。文体には思想の香りが漂っている。人はその香りに惹きつけられることによって書物の中へと入っていく。文体に魅了されたが最後、そこに書かれている思想を了解できるか否かにかかわらず、人はその書物から目を離すことができなくなってしまう。1杯のコーヒーに、それを作る職人がどのように心血を注いだか知らないままに、コーヒーを飲み干してしまうように。
僕にはネーション/ステートについて語るだけの力量はない。文学の動向についてほとんど知らないし、現象学などちんぷんかんぷんである。しかし、それにもかかわらず、僕は柄谷行人の一連の著作を追いかけてしまう。その膨大な知識と難解なテクニカルタームに翻弄されながらも、どうしてもその書物たちを手放すことができないのだ。それはひとえに柄谷の文体の持つ引力による。彼の文体の引力圏に入るやいなや、僕はその引力に絡め取られて身動きが取れなくなってしまう。
この感覚は読書好きにはきっとわかってもらえると思う。個人を捉えて離さない文体というのが確かにある。僕にとっての柄谷行人は、他の誰かにとっては、小林秀雄かもしれないし、東浩紀かもしれない。それが誰であるにせよ、必ずその人にとっての文体の引力を備えた思想家や作家というものがいるはずだ。
Wikipediaによれば、柄谷は若い時分に江藤淳の文章を書き写して勉強していたという。とすれば、僕は江藤淳の文体にも強く惹きつけられるのかというと、そうではない。柄谷行人は江藤淳から始まり、それを換骨奪胎したうえで柄谷行人を手に入れたのだ。その文体は他の誰のものでもない。
ここでひとつだけ、僕がとびきり気に入っている文章を引用しよう。柄谷の処女評論である「意識と自然-漱石試論」の冒頭である。
漱石の長篇小説、とくに『門』、『彼岸過迄』、『行人』、『こヽろ』などを読むと、なにか小説の主題が二重に分裂しており、はなはだしいばあいには、それらが別個に無関係に展開されている、といった感じを禁じえない。たとえば、『門』の宗助の参禅は彼の罪感情とは無縁であり。『行人』は「Hからの手紙」の部分と明らかに断絶している。また、『こヽろ』の先生の自殺も罪の意識と結びつけるには不充分な唐突ななにかがある、われわれはこれをどう解すべきなのだろうか。まずはここからはじめよう。
驚くほど明快な問題提起がなされている。分裂した主題などというミステリアスな言葉。また、きっと漱石の読者ならば、うすうす感じていたであろう違和感。それが見事に、簡潔に描出されており、読者の舌なめずりを誘う。
だが、僕が驚愕したのはそこではない(そもそも僕は熱心な漱石の読者ではない)。僕がたまらなく感動したのは、最後の1行。「まずはここからはじめよう」だ。実際この最後の1行は蛇足だ。無くとも全く困らないし、「どう解すべきなのだろうか」の時点で問題提起は十全に済まされている。にもかかわらず、この1行はなくてはならない。この1行が読者を絶妙に煽っている。「まずはここからはじめよう」によって、僕はどうしようもなく、柄谷の論考が読みたくなってしまうのだ。「どうか読んでください」ではなく、「お前らついてこれるか」でもなく、「まずはここからはじめよう」。下手でもない、上から目線でもない、中庸を攻めていながら、これほど読者をその気にさせる語り方を僕はほかに知らない。
奇しくも柄谷が文体について語った次のような文章がある。
思想家が変わるとは文体が変わるということにほかならない。論理的内容が変わっても文体が変わらなければ、彼はすこしも変わっていない。
結局僕は、こんなに長々と文章を書く必要はなかったのだろう。僕の言いたいことは上の柄谷のたった2行の文章にすべて要約されていた。