安楽椅子のモノローグ

完全なる頭でっかちを目指す

ユービック―イオンはすべて陰性か?

ユービック (ハヤカワ文庫 SF 314)

ユービック (ハヤカワ文庫 SF 314)

 

  それは車.それはビール.それはインスタント・コーヒー.それはサラダ・ドレッシング.それは胃薬.それは自動巻きスイス製クローム無限刃.それは艶出し剤.それは貯蓄貸付のシステム.それはヘア・コンディショナー.それはデオドラント・スプレー.それは睡眠薬.それはトースター.それはブラジャー.それはプラスチック・ラップ.それはうがい薬.それはシリアル.
―そして,それは神.

 

時間退行現象に抗うことのできる唯一の物質ユービックを巡るこの物語が,PKD(フィリップ・K・ディック)総選挙において見事1位に輝いたのは,そう昔の話ではない.『ユービック』が読者を魅了して止まない理由は,いろいろあるだろうが,やはり多様な読みを許す解釈の困難さと,読者を思索へと促さずにはいられない哲学性にあるのではないかと思う.

能力者と反能力者
生者と半生者
正常の時間軸と退行する時間軸

『ユービック』には様々な二項対立が出てくるが,その対立はいずれもやがて不鮮明になっていく.世界が崩壊していく感覚.この崩壊感覚とでも呼ぶべきものは,ディックという作家のひとつの大きな特徴であろう.本作では十分にそれが楽しめる.読者は否応なしにその世界観に引きずり込まれていく.そして,いつしか自分の生きている現実に対しても,実は確固たる拠り所の無かったことに気づかされるのである.

ミステリー好きやサスペンス好きも十分満足させられる作品である.正直、最初は,能力者と反能力者の対決に終始するものかと思っていた(それだけでも十分面白いとは思うが).しかし,爆発事件が起こる辺りから物語は様相を異にしてくる.突然始まる時間逆行現象,そして,生者と半生者のめまぐるしい反転.真犯人は誰か.そして,物語のテイストには全くそぐわないユーモアさで,断片的にしか語られないユービックとは一体何なのか.

ユビキタスやユビキティという言葉をさかんに聞いたのは20年ほど前になるだろうか.それはあらゆる人間が即座にコンピュータとアクセスできる社会を指す言葉として使われていた.それはテクノロジーの未来を一言で表す言葉であり,テクノロジーの希望を一身に背負う言葉であった.いつの間にかインターネットは瞬く間に世界中に広がり,僕らはいつでも好きなときに,好きな場所からアクセスできる状況にある.それとともに,ユビキタスという言葉も盛んには聞かれなくなった.しかし,その単語は今も「アクセス可能性」を消費者に喚起させるワードとして企業やブランドで採用されている

驚くべきことに物語の舞台は1992年である.僕らはとうの昔にこの年を乗り越えた.そして,世界にはまだユービックはないし,半生者のための〈愛しい同胞の安息所〉もない.ディックの想像力に僕らが追いつくのはまだまだ先ということか.

物語とはまったく関係ないことだが,僕がこの小説を読んでいて最も気になった一節を紹介しておく.ユービックの秘密が語られる件(ネタバレになるのでそこは引用しないが)に続く,ジョー・チップの台詞.

 

「“陰イオン”という表現は冗長じゃないかな.すべてのイオンは陰性だから」

 

科学的知識の誤謬なのか.誤読なのか.誤訳なのか.あるいはここに含まれている特殊な意味を僕が読み取れていないのか.いずれでもよいが,僕はこのような不可解な一行に心惹かれる.

そんな瑣末なことはさておき,必ず読むべき一冊であることは強調しておこう.
しかし,最後まで読んでもすべてが腑に落ちることはない.読者はむしろ最後の1行で再びひっくり返される.読者はどっぷりとユービックの世界に浸り,挑発され,翻弄され,最後は足元を掬われる.