安楽椅子のモノローグ

完全なる頭でっかちを目指す

霊山―誤配の愉悦

 

霊山

霊山

 

 どうしても忘れられない本というのは,きっと多くの人が持っている.その人の人生観に大きな影響を与えたり,ときには,人生そのものを変えたりするような本.あるいはその本との出会いは些細な出来事程度のものでしかないかもしれない.しかし,その些細な出来事がどうしても心から離れなくて忘れようにも忘れられない.そんなある種の暗示に似た本もあるだろう.

僕にとっての忘れられない本.それが『霊山』である.しかし,いま僕の手元にはない.高行健ノーベル文学賞をとったとき,僕は単なるミーハーな気持ちでこの本を手にとった.高行健を知っていたわけではもちろんない.ただ,ノーベル賞をとった,きっとすごいに違いない本を読んで,自己満足に浸ろうという邪な気持ちだけで読もうと決めたものでしかない.図書館から借りて読んだだけだ.

「おまえ」と「私」が交錯する文章に僕はすぐに魅了された.そもそも小説をそれほど読んだことのない僕にとって,人称が交替しながら語られていく様は不思議で仕方なかった.しかも,「おまえ」と「私」はどうやら同一人物であるようだ.癌を患った「おまえ」が霊山を目指しながら,「彼女」と出会い,自らについて思いを馳せる.一方で,「私」は時空を超えて中国の歴史そのものに思いを馳せる.随分前に読んだ小説で,しかも手元に本そのものがないから,こんな内容であっていたかどうかはわからない.しかし,とにかく幻想的で,蠱惑的で,神秘的で,肉感的で,ポリフォニカルな小説であったという印象だけは残っている.

僕は当時,マジックリアリズムなる言葉を聞きかじっていたが,読んだことはなかった.しかし,僕は『霊山』を読んだときにこれこそがマジックリアリズムなのだと直感したのだった(この直感はたぶん間違っていたのだと思う.中国ではむしろ莫言こそがマジックリアリズムの代表者と目されているようだ).それから僕はボルヘスやガルシア=マルケスなどのラテン文学を読むようになり,実は日本人にもマジックリアリズムの作家がいるということを知り,大江健三郎中上健次を読むようになった.

つまり僕は,中国に始まり,ラテンアメリカを経由して,ようやく日本へ帰り着いたこととなる.しかも,始まりは完全なる誤配である.しかし,僕はこのような誤配を歓迎する.僕は僕を正しい道へと導く正しい指南書よりも,僕を迷わせ,文学という広大な森を彷徨させる誤配に出会うことを願っているからだ.

僕は『霊山』のおかげで,様々な文学と出会うことができた.『霊山』という小説は,それそのものだけでも1個の作品として強力な魅力を備えた作品であることは間違いない。当時の僕に中国についての知識がもっとあれば『霊山』をもっと楽しめただろうし,高行健という作家の生い立ちや人となりを知った上で読んでいたら僕は中国文学の方へと進路をとっていたかもしれない.

 

しかし,それとてきっと誤配であろう.

 

 僕は『霊山』のよい読み手ではなかったかもしれない.しかし,『霊山』は間違いなく僕を,僕の知らない文学の霊山へと誘ってくれたことは確かである.僕はだから『霊山』そのものに対する思い出というよりも,僕を未知の領域へと案内してくれた作品として『霊山』を強烈に覚えている.

 

そんな文学作品というのもある.