安楽椅子のモノローグ

完全なる頭でっかちを目指す

勉強の哲学-来たるべきバカに、なれ

 僕は一度大学を出た後、社会人を経験し、もう一度、別の大学に通った経歴を持っている。今の世の中そんな人はたいして珍しくはないだろう。1度目はそうでもなかったが、2度目は学部の性質もあって、周囲には僕と同じような経歴の人々が(編入学者も含めて)10人以上はいた。しかも僕が出たのは地方大学で、そこでさえこうなのだから、きっと都会にはもっとわんさか同種の人たちがいるに違いない。勉強するのはとてもよいことですよね。

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

  千葉雅也は、『動きすぎてはいけない』ですでに有名だったので、存在は知っていたが、著書を読むのは今回が初めてだった。新進気鋭の哲学者であり、その風貌からして、硬質な哲学を大上段に振りかざすタイプではないはずだと踏んでいたが、どうやらそのイメージはあっていたようである。専門家向けの文章ももちろん書けるのだろうが、本書は一般向けに書かれたもので非常に読みやすい。あまりの読みやすさに一見さらっと読めてしまうが、何度か読み返したほうがいいなと思う。読み返すたびに自分の中に入ってくる。

 情報が好きなだけ手に入れられる現代はまさに「勉強のユートピア」である。その現代で深く勉強するための原理と実践が、筆者の経験も踏まえて、平易に、しかし、驚くほど効用性に富んだ内容が書き記されている。確かに、ここに書かれていることを実践すれば間違いなく勉強ができるようになる、と僕は思った。こんな本をふつうに読めるってなんて素晴らしい時代なんだろうと感じる。これは本当にもっと若い頃に読みたかった。僕くらいの年代の人にこの本を読ませたらみんなそう言うだろう。

 僕が若い頃には、勉強について語るなんて人はまずいなかった(ひょっとして僕の周りだけか?)。しかし、勉強に惹かれて学問の道に進もうとすると、なんか周囲とは違う疎外感を感じていたのは確かである。僕みたいな人間では、その疎外感の正体を明示的に述べることはちっともできなかったけれど、本書を読んでその正体が大いに腑に落ちる感覚があった。ああ、僕はきっとあのとき「ノリ」が悪い人間になってたんだなあ、と。

 哲学者だけあって、原理についても詳しく書かれているが、時間がない人は実践編のパートだけでも読むとよい。勉強のヒントというか、勉強の仕方そのものの正解が記されているから。僕は別に勉強ができると自負しているわけではないが、ここに書かれている方法を試行錯誤しながら手に入れてきたと思う。そして、それを得るためにかけた時間は10年はあっただろう。ところが、僕がそんなに時間をかけて手に入れたものがここにはすべて書かれている。それどころか、それをさらに上回るような方法もたくさん書かれているのだ。びっくりした。

 なんだよ俺の10年! と自分自身に対して怒りさえ感じるほどである。こんないい本早く出してくれよ!と叫びたくなった。本書さえ読めば、僕の10年がわずか1日程度に凝縮されるわけだ。これぞ情報化社会というべきか。僕は人文畑で生きてはいないが、本書で千葉の語る方法は、自然科学でも大いに活用できる、というか、これ以上に良い方法など今のところ見当たらないと言っても言い過ぎではない。

 読書の方法についても意義深い示唆を与えてくれる。

 

 難しい本を読むのが難しいのは、無理に納得しようと思って読むからである。

 

  自分の実感に引きつけないで読む、というのは、あるテクストを「テクスト内在的」に読むことである。それは、テクストの構造=設定における概念の機能を捉えることである。

  

 そんなこというけど、実際どうやったらできるのさ、と思うでしょう? 大丈夫、その具体的方法についても本書に十分書かれている。本書が優しいのは、豊富な具体例を挙げて言いっぱなしにしないところなのだ。これ1冊で勉強の理論と実践がすべてわかる。

 ちなみに僕は「完全なる頭でっかち」を掲げているのだけれど、これは千葉のいう「言語偏重」に近いものだと思っている。

 勉強っていいですよね。
 本書を読んで、勉強しましょう。そして、バカになりましょう。単なるバカではないですよ。来たるべきバカになるのです。