安楽椅子のモノローグ

完全なる頭でっかちを目指す

アラビアの夜の種族-あとがきさえ嘘をつく

今週のお題「読書の秋」

 今年の8月、僕はオハイオ州にいた。デレク・ハートフィールドの墓を訪れるためだ。ハートフィールドの名を聞いたことのある人は多くはいないだろう。あまり、いや、まったくというほど知名度はない。日本においてもアメリカにおいても。しかし、彼は日本文学史にとって、きわめて重要な作家である。彼について言及した作家が日本にただひとりだけいる。村上春樹だ。デビュー作『風の歌を聴け』の中で、ハートフィールドについての記述がところどころに出てくる。村上も言っているように、ハートフィールドは村上春樹の起源なのである。ハートフィールドの著作との出会いがなければ、作家・村上春樹は誕生しなかった。その意味で、ハートフィールドは日本文学史にとって、きわめて重要な作家なのだ。

 

 ハートフィールド研究者は数えるほどしかいない。僕の知りうる限りいまのところ2人だけだ。トマス・マックリュアとその娘のリンダ・マックリュアである。トマスはすでに高齢であり、現在ではその研究のほとんどをリンダ1人で行っている。僕は不慣れな英語でリンダにe-mailを送り、なんとか会う約束をとりつけることに成功した。なぜ僕が急にリンダに連絡をとろうという気になったのかは、自分でもよくわからない。もしかしたらヤフオクドームに野球観戦に行ったことがきっかけになっているのかもしれない。

 

 ハートフィールドの墓は小さいと聞いていたが、意外と大きかった。一見したところそれは、雨風にさらされた岩石にしか見えないけれども。
 墓石にはニーチェの言葉が記されていると村上の小説には書かれているが、現在では風化してしまい、ほとんど読み取れなくなっている(何と書かれていたか?)。ひと通り墓参りを終えたあと、リンダの家でティータイムとなった。彼女は小太りの50代の女性だが、快活に笑い、よく喋る。何よりハートフィールドという無名の作家のためにわざわざオハイオまで来てくれたことを心の底から喜んでくれた。

 

 午後の日差しが窓に差し込み、ちょうど僕の額を照らしていた。僕は彼女にカーテンを閉めていいか尋ねてから、窓際へ向かおうとした。そのとき、ふいにリンダが何かを思い出したように言った。
「あなたはThe Arabian Nightbreedsを知ってる?」
 僕は一瞬彼女が何を言っているのかを理解することができなかった。まさかその書物の名前が彼女の口から出るなんて予想もしていなかった。
「あなたはThe Arabian Nightbreedsを知ってる?」
 もう一度彼女は言った。僕が聞き取れなかったと思ったのだろう。今度はゆっくりとひとつひとつの単語を発音した。
「知っているが、それは古川日出男の小説のことを言っているのかな? それとも・・・」
「ああ、Hideo Hurukawaのほうではないわ。ハートフィールド訳のほうよ」
 よく考えたら彼女が古川日出男を知っていること自体驚きだが、そのときの僕はそんなことには思いもよらず、それをはるかに凌駕する驚きで胸がいっぱいだった。

アラビアの夜の種族〈1〉 (角川文庫)

アラビアの夜の種族〈1〉 (角川文庫)

 

  『アラビアの夜の種族』は、古川日出男の4作目の著作だが、古川のオリジナルではない。それはThe Arabian Nightbreedsという本の翻訳である。
 小説の舞台となるのは聖遷(ヒジュラ)暦1213年のエジプト。ナポレオン艦隊がエジプトに進出する、まさにその年である。エジプトを束ねる知事たちは状況を楽観視していた。エジプトの軍隊は世界最強であるという間違った自負に疑念を抱かなかったのである ― ただ、一人を除いては。このままではエジプトが陥落することを見抜く、ただ一人の知事イスマーイールは、焦燥感にさいなまれていた。一体どうすればナポレオン軍を打ち破ることができるのか。彼の優秀な部下アイユーブは、しかし、微塵も慌てた素振りを見せない。なぜか。アイユーブには秘策があったのだ。それは『災厄(わざわい)の書』だった。読む者を破滅に導き、歴史を覆す書物、その書物をナポレオンに贈りつける計略をアイユーブは密かに進めていたのだ。それは夜にだけ語られる物語、『もっとも忌まわしい妖術師アーダムと蛇のジンニーアの契約(ちぎり)の物語』あるいは『美しい二人の拾い子ファラーとサフィアーンの物語』と呼ばれる物語に関する書物である。夜の種族たちによる年代記語りが始まる。

 

 古川日出男の翻訳は素晴らしく、注釈も詳細である。世界各国で訳されているかどうかはわからないが、僕らは洋書に頼らずとも、この奇書を読むことができる幸運な国に住んでいる。多くの人が言っていることだが、読み始めると止まらない。徹夜は当たり前だとして、読んでしばらくはこの世界に浸りきったままになり、日常生活すら覚束なくなってしまうこと請け合いだ。秋の夜長に読めば、気づいたときにはすでに冬になっているかもしれない。

 

「ハートフィールド訳?」
 僕の声はうわずっていたに違いない。The Arabian Nightbreedsをデレク・ハートフィールドが訳していたなんて、聞いたことがない。
「そう、ハートフィールド訳。つい最近発見されたのよ。でも、おそろしく読みづらい」
 ハートフィールドの著作が読みづらいのは、有名な話である。それは村上春樹も指摘しているところだ。しかし、慣れてくるとその読みづらさは味に変わる。リンダほどの読み手であれば、ハートフィールドの読み方を知り尽くしているはずなのに、彼女が読みづらいというからには、何か理由があるに違いない。
「読んでみていいかな?」と僕は尋ねた。

 

 読みづらいはずである。時系列がばらばらなのだ。ハートフィールド特有の難解な言い回しに加えて、作品が分断されて並べられている。これをもと通りに復元するのは、ひどく骨の折れる作業だろう。何万通りの順列組み合わせがあるだろうか? 僕はため息をついた。
「どう読みづらいでしょう?」リンダは勝ち誇ったように言った。
僕は大きく頷いた。

 

 今、日本に帰った僕の手元にハートフィールド訳 The Arabian Nightbreedsがある。何とリンダが貸してくれたのだ。1年という期限付きで。僕は毎日それを読んでいるが、遅々として進まない。いっそのこと本を裁断することができれば、まだどうにかなるかもしれない、と思ったが、貴重な文学資料である。そういうわけにもいかない。僕はずっと途方に暮れている。

 

 夢を見た。
「おまえたちに過去はないのか。おまえたちはおれといっしょか」
 誰の声だったろう。それはリンダの声のようでもあったし、僕自身の声のようでもあった。無数の孤児たちが生まれていた。彼らは救済を求めていた。彼らの血は滾っている。動脈で疼いて、静脈で喚いた。血は今にも沸騰しそうだった。心臓の中で。肺も、肝も、腎も破裂させて。
 そして天地が蒸発する。九十九度の血潮とともに。

 

 僕は目を覚ました。じっとりとした汗が全身を覆い、とても気持ちが悪かった。そしてようやく思い出した。ハートフィールドの墓石に刻まれた言葉を。彼もNightbreedsの一員だったのだ。どうして僕はそれに気づかなかったのだろう。彼もまた『アラビアの夜の種族』の歴史に参加し、英訳を行ない、拡散させることに加担したのだ。物語を不滅にするということばを脳裡に浮かばせて。エンパイアステートビルから落下するとき、彼はきっとこうつぶやいたに違いない。
 ファラー?