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皮膚感覚と人間のこころ―最大にして最強の臓器”皮膚”

皮膚感覚と人間のこころ (新潮選書)

皮膚感覚と人間のこころ (新潮選書)

 

  外界と直接触れ合う皮膚は、環境の変化から生体を守るだけでなく、自己と他者を区別する重要な役割を担っている。人間のこころと身体に大きな影響を及ぼす皮膚は、脳からの指令を受ける一方で、その状態を自らモニターしながら独自の情報処理を行う。その精妙なシステムや、触覚・温度感覚のみならず、光や音にも反応している可能性など、皮膚をめぐる最新研究。

 

突然ですが、問題です。

「生物は周囲から物質をとりこみ、それを放出してその形を保っている。琵琶湖は周囲の河川から水をとりこみ、淀川に水を放出してその形を保っている。琵琶湖は生物であるか否か、論ぜよ」

  この問題は傳田光洋が高校時代に受けた期末試験で実際に出題された問題である。傳田は、今でも上の試験問題が記憶に鮮明に残っているという。彼は生命科学の研究者となった。優れた問いは、優れた研究者を生む。

 

 本書には、皮膚に関する最新の知見がわんさか盛り込まれている。実に様々な角度から、皮膚を照らす。皮膚に対する我々の旧態依然とした固定観念をひっくり返すような驚きの内容が満載だ。恐らくは、文学に対する造詣も深いのだろう。要所要所で有名な文学作品の1節が引用され、それが本書を単なる科学啓蒙書に陥らせない個性を与えている。だが、それはまた、これまで数多の文学者が、皮膚について思いを馳せてきた証左でもあろう。文学的発想は、ときに科学よりも科学的であることがある。分野の垣根を越えた学際的研究もさかんに行われるようになっているが、科学と文学とのコラボレーションも今後ますますさかんになるといいな、と思う。

 

 これまで多くの方々が、人体最大の臓器についての話を僕に聞かせてくれた。人体最大の臓器は、ときに脳であり、ときに心臓であり、ときに肝臓であったりした。またあるときは脂肪というのもあったし、副腎などという聞きなれない臓器のこともあった。何が最大であるかは定義によって異なるし、みんな違ってみんないい、よね。
 だが、本書を読めばあなたの臓器観(そんなものがあるとして)は様変わりするだろう。すなわちこうである(今の僕)。
「人体最大にして最強の臓器は皮膚である」

 

 第1章から知的興奮をMAXにする内容となっている。生育時に親から皮膚をきれいにされたり、なめられたりせずに放置されたラットでは、ストレスホルモンであるグルココルチコイドを受け取る受容体の数が少なくなるという。グルココルチコイド受容体はグルココルチコイドの分泌が過剰にならないよう抑えるフィードバック機構で重要な働きをしているため、この受容体の数が少ないとストレス下に置かれる時間が長くなってしまうのだ。その結果、放置ラットは自分の子の世話をしなくなってしまう。
 受容体の減っている原因はDNAのメチル化によるものである。DNAはメチル化されるとOFF状態となり、タンパク質合成ができなくなるという性質を持っている。そのため、グルココルチコイド受容体の合成がストップするというわけである。
 僕はここですでに仰天した。皮膚刺激が遺伝子発現の調節の引き金になってるだって!そんなの聞いたことなかった。

 

 つかみはOK過ぎるほどOKだ。ここから著者の怒涛の攻撃が終わりまで続く。第2章は進化生物学と絡めて皮膚を語り、第3章、第4章ではバリア機能としての皮膚を語る。かと思えば、第5章では感覚器としての皮膚を語り、第6章では皮膚から他の身体器官へ働きかけを論じ、第7章では皮膚による自己の立ち上がりを解く。第8章は皮膚ペインティングを足がかりとして自己の表象としての皮膚を語る。ここら辺は以前に書いた『さまよえる自己』に通じるところがあるなあ、と思う。一緒に読むのも手かもしれない。

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 そして最後は数学だ。非線形数学と皮膚科学の邂逅。皮膚における化学現象のシミュレーションにまで著者の研究は進んでいることを知らされる。「知識の万華鏡や~」と叫びたくなること請け合いである。

 

 出典も明確にされているところが心にくい。「evidence based」興隆の時代において、ちゃんと読者が原典を参照できるよう細かい気遣いがなされている。地にひれ伏し、神として崇めたくなるレベルだ。皮膚科学の最新知見が最高密度に凝縮して提示されている。本書だけで論文を数十本読んだのと同じか、それ以上の効果があるだろう。

 

 数年前の本である。ということは今現在その知見は蓄積され、さらなる驚くべき皮膚の秘密が発見されているかもしれない。最新作が待ち遠しい。著者は、もとは物理化学が専門だという。その境遇がまた僕と似ているから(こんな恐れ多いこと言ってすみません)、個人的には余計に親近感が湧く。物理化学と皮膚に何の関係が? などと問うのは愚かというものか。本書は勉強が決して無駄にならないことの実例としても読める。

 

 ところで、冒頭の問いの答えはなんだろう。ちなみに著者の考える解答は本書の最後に提示されている。その解答を予想するもよし、自分なりの解答をひねり出すのもよし。ぜひ考えてみてください。あなたの解答が未来の皮膚科学を切り開くかもしれません。