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メフィスト賞の軌跡―その0 京極夏彦

 京極夏彦がミステリ界に及ぼした影響は計り知れない。いや、ミステリ界と限定する必要は全くない。京極夏彦は広く日本のエンタテインメントを改革したと言っても言い過ぎではない。いくつか列挙してみよう。

 

  1. 京極夏彦がいなければメフィスト賞は誕生しなかった
    在野には、ものすごい才能をもつ書き手たちがいる。その可能性を京極夏彦講談社に提示してみせたからこそ、メフィスト賞は誕生したのだ。そして、実際恐るべき才能が今でも発掘され続けている。彼がいなければ、現在名作と言われる、ミステリを含むエンタテインメント作品の少なからずが誕生していないだろう。
  2. 妖怪の再発見
    日本の妖怪は1990年代の後半には消滅しつつあった。もちろん、一部のコアな層によって、その灯火は絶やされぬよう守られていただろうが、公にはそれほど人気のあるジャンルではなかった。しかし、妖怪の伝承をモチーフに用いながらもミステリの枠を忠実に守るという京極夏彦独特の「妖怪小説」の登場によって、妖怪は平成の世に復権を果たした。
  3. 純文学と大衆文学との垣根の破壊
    京極夏彦においては、ミステリという体面はまだしっかりと保持されてはいるものの、そこには純文学的な要素もふんだんに盛り込まれている。作中人物たちが民俗学、科学、心理学などについて豊富な知識をひけらかし、また、それが本編の内容に密接にリンクするという形式は、今でこそ多くのミステリ作家が踏襲しているが、当時はとても斬新だった。また、ミステリにおける謎解きの占める比重がそれほど大きくなくなっていくのも京極以降である。この傾向が突き詰められることで、舞城王太郎佐藤友哉などのジャンル横断的作家が生み出された。
  4. 作品は鈍器であることを世に知らしめた
    京極夏彦の作品はことごとく鈍器である。まるでミステリ小説は鈍器でなければならないとでも言っているかのようである。メフィスト賞応募者が、すさまじい量の原稿用紙を送るようになったのも京極夏彦を倣ってのことであろう。それはまるで鈍器的作品のみが名作であるという価値観を作家志望者に植え付けた。形式が本質を凌駕したのだ。
文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

 【あらすじ】
この世には不思議なことなど何もないのだよ――古本屋にして陰陽師(おんみょうじ)が憑物を落とし事件を解きほぐす人気シリーズ第1弾。東京・雑司ヶ谷(ぞうしがや)の医院に奇怪な噂が流れる。娘は20箇月も身籠ったままで、その夫は密室から失踪したという。文士・関口や探偵・榎木津(えのきづ)らの推理を超え噂は意外な結末へ。京極堂、文庫初登場! 
 

  『姑獲鳥の夏』は記念すべきメフィスト賞第0回受賞作である。枚数自体すでに圧巻であるが、これを仕事の片手間に書いたということがさらなる驚きである。そして、この才能を見逃さなかった講談社編集部も素晴らしい。妖怪伝承という古びたモチーフを用いながらも、冒頭の京極堂と関口の会話では、量子力学脳科学に関するエピソードが語られ、それが作品にそれまでのミステリ小説にない新しさを与えている。

 

 あまりにも冗長すぎる語りは、時として批判の的となることもあるようだが、むしろこの冗長さが京極作品の売りである。冗長であることは、退屈とは全く同義でない。文章の合間合間に本質を穿つような鋭い名言が飛び出し、注意深い読者であれば、そこに作者の才能を垣間見て感嘆するはずだ。長い文章にてわざと読者の頭脳を酩酊状態にしようという意図もあるのかもしれない。実際、一見事件とは無関係に見えるような記述が、トリックに大きく関わっている。

 

 『姑獲鳥の夏』のトリックは驚くべきものである。すでに多くの読者はこの作品を既読のことと思われるが、未読の方には、読むことを強くお勧めする。このようなトリックがありえるのかどうか、これまでも議論の的となっているが、僕の立場は「絶対あり」だ。ネタバレはしたくないので、多くを語らないが、ミステリ史上に残るトリックである。

 

 僕らは京極以降を生きている。若い人たちは生まれながらにすでに京極以降を生きているために気づかないかもしれないが、京極以前と以後は全く違う世界なのである。すでに『姑獲鳥の夏』が古典になっているいま、ぜひとも読み返されるべき作品だ。ゼロ年代以降のすべての物語の始原といってもよい、革命的作品である。