安楽椅子のモノローグ

完全なる頭でっかちを目指す

睡眠の科学・改訂新版―人体最大の謎・睡眠の秘密に迫る

神は現世におけるいろいろな心配事のつぐないとして、われわれに希望と睡眠とを与え給うた。(ヴォルテール

 

 僕は睡眠医学について、全くの門外漢である。しかし、専門外の僕から見ても近年、「睡眠」に対する注目がますます増加していることはわかる。不眠、ナルコレプシー、REM睡眠行動障害、夢中遊行症・・・・・・睡眠にまつわる病いは数多く存在し、多くの人を悩ませている。人は「睡眠」から自由であることは決してできない。もしも「睡眠」の支配から逃れ得たとして、その人を待っているのは幸せではなく、絶望である。「睡眠」は、生物にとって必要不可欠な生理的現象なのだ。だが、なぜ我々は眠らなければならないのか、と問うてみるとき、その問いに正確な答えを与えることのできる人間はまだいない。そのような状況の中、「睡眠」の謎に最も肉薄した男がいる。現生人類で「睡眠」の謎に最も漸近したその男の名は、言うまでもなく、櫻井武である。

  『睡眠の科学』がこの度改訂された。睡眠について知りたければ、まずこの本を読めばよい。いや、読むべきである。読まなければならない。この本には睡眠医学の「肝(キモ)」がすべて掲載されている。読者はこの本を足がかりとして、睡眠医学という現代医学最大の迷宮にどの入口からでも入ることが可能となる。「なぜ眠るのか」という哲学的問いから入るのも良い、あるいは、神経伝達物質と眠りの関連から入るのも良い。はたまた、薬理学的作用という観点から入るのも良いだろう。睡眠医学へのアプローチにとって、本書を超える本はない。

 

 改訂理由は、最新知見の発見による。例えば、2012年にその存在が示された「グリンパティックシステム」についての言及がなされている。脳にはリンパ系が存在しないとされる(だが、脳に悪性リンパ腫原発するのはどうしてだろう?)。リンパ系は老廃物の処理を行うために必要なのだが、では、脳ではどのようにして脳内の老廃物を処理しているのか。実はグリア細胞が行っているのだ。グリアがあたかもリンパ系のように働くため「グリンパティック」と名づけられたのである。それだけではない、この「グリンパティックシステム」は、ノンレム睡眠のときに働いていることも示された。つまり、眠らなければ脳内の老廃物処理システムは機能しない可能性があるのだ。これと関係しているかどうかは不明だが、マウスを用いた実験では、不眠マウスの脳内にはアルツハイマー病の原因物質とされるアミロイドβという老廃物が蓄積されることが示されている。

 

 ところで、櫻井は覚醒を司る物質である「オレキシン」の発見者である(ちなみに彼は「エンドセリン受容体」の発見者でもある)。オレキシンオレキシン受容体に結合することでその作用を発揮し、ヒトを覚醒へと導く。2014年には、この結合を阻害する「オレキシン受容体拮抗薬」が発売され、不眠治療の新たな一歩が刻まれた。それまでとは全く違う薬理学的機序による薬剤の登場は不眠治療の選択肢を広げた。不眠治療は大きな転換点を迎えつつある。(下はオレキシン発見が掲載されたときの『Cell』の表紙)

               

  日本が、睡眠医学の分野で世界をリードしていることを知らない人もいるだろう。この本を読めば、現在、睡眠について何がわかっていて、何がわかっていないのかがはっきりとする。なにせ、著者が櫻井武である。世界に名だたる睡眠医学大国日本が誇る、最高の睡眠研究者櫻井武である。ここに書かれていることは、現在睡眠についてわかっていることのほとんど全てであり、これを読めば睡眠医学の最先端に限りなく近づくことができる。

 

 とても平易に書かれている。その平易さは、櫻井武が睡眠について、この上なく深く理解しているからこそ達成できる平易さである。この平易さにつられて僕らはどんどん読み進んでいくことができる。そして、この本を読了したとき、僕らがいる地点こそ睡眠医学のフロンティアなのだ。