安楽椅子のモノローグ

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カオス―科学界の異端理論

カオス―新しい科学をつくる (新潮文庫)

カオス―新しい科学をつくる (新潮文庫)

 

  キューブラー・ロスはその著書『死ぬ瞬間』の中で、死の受容の5段階について述べている。突然、死を宣告された人間は、もちろん個人差はあるものの、おおよそ、否認→怒り→取引→抑うつ→受容の5つのプロセスを経て自らの死を受け入れるという。

 

 カオス理論が、当時の科学界に突きつけたのは「死亡宣告」であった。それは物理学にとっては、決定論に対する死の宣告であり、数学界にとっては公理主義に対する死の宣告であり、科学界全体にとっては線形科学に対する死の宣告であった。この表現はいささか大げさに聞こえるかもしれない。しかし、当時の科学界がカオス理論に対して抱いた感情は、まさに死亡宣告を言い渡されたに等しい感情であったのは間違いないだろう。カオス理論が科学界に浸透するためには、キューブラー・ロスの死の受容の5プロセスを経ねばならなかったのである。それは端的に言って、パラダイムシフトが起こったということに他ならない。

 

 新しい科学は歴史と共に語られなければならない。なぜならそれは、それが必然的に産み出されなければならなかった時代背景を持っているからである。ニュートン力学にはニュートン力学の時代背景があり、量子力学には量子力学の時代背景がある。本書は、すでに古典の部類に属するものであるが、カオス理論黎明期の時代背景が克明に描写されており、他の類書とは一線を画すほど詳細なエピソードがつづられている。理論についても手を抜くことなく、しかし、専門的になることは避けながら、できる限りの範囲でカオス理論のおもしろさを伝えようという意気込みが感じられる。

 

 本書を読んで思うのは、カオス理論はその歴史すらもchaoticであるということだ。ローレンツの「バタフライ効果」に始まり、スメールの馬蹄型写像、離散型ロジスティック方程式、リーとヨークのあまりにも有名な「周期3はカオスを意味する」、フラクタルの象徴ともなったマンデルブロ集合、リュエルのストレンジ・アトラクタ、ファイゲンバウム定数、リブシャベールの実験、マイケル・バーンズレーのカオス・ゲーム、ロバート・ショウの水滴系のカオスなどなど。ちなみに、物理現象におけるカオスを世界で初めて発見したのが上田睆亮であることは蛇足か。

 

 これらを見るだけでもchaoticである。気象学から物理、数学、情報理論にいたるまであらゆる分野を巻き込んでカオス理論が発展してきたことがわかる。それまで目を背けられていたことを糾弾するかのような勢いで、カオス理論は自らの存在を主張し始めたようにも見える。それは、まさに蝶の羽ばたきのように、ある種のノイズとして科学者の目に留まり、いつのまにか、もう後戻りできないくらいまでに科学界に大嵐を巻き起こしたのだ。カオス理論はその誕生そのものがchaoticである。

 

 それは医学をも巻き込んだ。分裂病者の眼の動き、心臓のリズム、血管網や神経網など身体のいたるところにカオスが出現していることがわかっている。僕は恥ずかしいことにこれらの研究には無知であるが、どうやら医学界もカオスの渦と無関係ではいられないようだ。残念ながら、僕の身近にカオスを医学に応用した研究を行っている人はいないが、いつかぜひ会ってみたい。

 

 本書は、古典である。現在の研究はさらに進んでいるだろう。このような分野横断的学問はなかなか浸透しにくい傾向にあるが、いま、現在カオス理論はどの程度までその領野を拡大しているのだろう。物理学からはあまりにも数学的すぎるとされ、数学からはあまりにも物理学的すぎるとされ、常に異端児とみなされて続けてきた「新しい科学」の行く末を、見守っていく価値はある、と僕は思う。

 

 実はこの本を読んだのには、最近観たあるテレビ番組が関係しているのだが、それはまた、次回に語ることとする。