安楽椅子のモノローグ

完全なる頭でっかちを目指す

独物語ーたぶんその4

 最近(確か11月21日)のほぼ日「今日のダーリン」で糸井重里さんが、自分はずっと新人だったということを書かれていた。

 

 「今日のダーリン」というのは、糸井重里らしさがすごく出ていて、文章はすごく平易で柔らかいのだけれど、そこで述べられていることは非常に深い。これがプロの物書きなんだなあ、といつも感嘆してしまう。いかにもな名言を大上段からビシッと決めるんじゃなくて、こちらが何も身構えせずに読めるような、向こうからそっと手を差し伸べてくれるようなそんな文章だ。寄り添いとでも言えばいいんだろうか。

 

 僕が感嘆するのは、これほどまでに平易な言葉で、しかも、しっかりと人の心に届く文章を、毎日書けるということだ。平易な文章だから書くのは簡単だろう、なんてことにはならない。実際に僕は平易な文章ばかり書いているが、決して書くのは簡単ではない。こんな文章を書くのに何十分かかっているんだ、と自分で自分にツッコミを入れるほどである。ましてや、それが人の心に届いているなんて自惚れを持つことさえできない。だが、こんな僕の書く記事でも読んでいただける読者がいることには、本当に感謝している。

 

 それでも、とても毎日文章を書くというのは不可能だ。文章を書くという作業は、案外疲れる作業である。自分でブログをやるようになって気づいたのだが、文章を書くのは容易い作業のように見えて、実は結構重労働である。あまりにも疲れすぎて、免疫力の低下が起こっているのではないかと思うときさえあるくらいだ。文章を書くというのは、あるときにはきっと精神を安定させるような作用があるが、あるときには逆に心をひどく疲れさせるような作用も及ぼすのだと思う。

 

 以上のことはもしかすると僕が文章を書くということに不慣れなことからくるものなのかもしれない。ブログを10年20年と続けていけば、また違った風景が見えてくるのだろうか。

 

 ところで、僕も自分の人生を振り返ったとき、いつも新人であるということにはっと気がつき、思わず「エウレカ!」と叫んでしまった。新人具合でいうと、僕も糸井さんに負けるものではないだろう。これはきっといい勝負になるのではないか。などと言うと、糸井ファンからは怒られるかもしれないが、確かにずっと新人なのです。それで誰かに何かを威張れるようなものでもないし、常にチャレンジャーであるなどと野暮なことを言いたいわけでもない。大体、ずっと新人であり続けることがいいことであるわけがない。デメリット盛りだくさんである。普通に考えて、新人のエンドレスリピートの人生なんて、誰も過ごしたいとは思わないだろう。永劫回帰など単なる苦痛以外の何ものでもない。と、今の僕は思っている。

 

 ただ、僕の周囲には自ら新人になることを積極的にやっている人が多いのは確かである。そして、それらの方々はみなさんとても格好いい。中には定年後の人もいる。僕がどうであるかは別としても、新人であることは、ずっと若くいることなのかもしれないと思う。新人のエンドレスリピートだっていいじゃないか、とその人たちは言うかもしれない。僕はそんな気持ちにはまだなれないけれど、新人ライフを性懲りもなく続けていけば、格好いい老人になれるのだろうか。40年後の僕はどう思っているだろう。

 

 今日はとてもとりとめのないことを書いた。とりとめのない文章を書くのは、とても気分がいい。