安楽椅子のモノローグ

完全なる頭でっかちを目指す

中動態の世界 意志と責任の考古学ーあるいは音楽を聴くことについて

 

 

 國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』は刺激的でスリリングな書物である。こんなにおもしろい思想書を読んだのは久しぶりだった。能動態とも受動態とも違う態「中動態」、失われた態をめぐる言語的・哲学的・思想史的考察はまさに圧巻の一言である。能動でも受動でもない図式で、世界を眺めることの重要性がひしひしと伝わってきた。我々の思考様式は当然ながら様々な文化的制約に縛られているが、言語というのは非常に強固なバイアスである。そこそこのページ数の本だが、我々を既存の言語体系から引き離すためには、これほどのページを使った議論が必要とされるということだろう。実際、國分功一郎の議論は微に入り細を穿つものである。疑問点をひとつひとつ解きほぐしながら、古代ギリシャから現代まで時空を旅するように、色んな哲学者の論に拠りながら、批判的に「能動-受動」の体系を切り崩していく。そして、「中動的」に思考するとはどういうことかに丹念に迫っていくのである。

 

 これがケアの文脈に着想を得ているというのがまたおもしろい。医学書院のシリーズ「ケアをひらく」はびっくりするほどの名著揃いなのだが、またここに1冊の名著が加わった。発売前はもっとケアとリンクする事柄がたくさん書かれているのかと思っていたが、予想とは全く違って原理的な本である。國分はむしろあえて原理的に書くことによって、「中動態」の応用範囲を限定してしまうことを避けているのかもしれない。応用は読者の自由な発想に任せるとでも言っているようだ。

 

 僕は依存症の専門家ではないが、それが薬物療法や教育だけで済んでしまうような疾患でないことはわかる(もちろん幸運にも薬物だけで治る人もいるだろうが)。依存症の治療を難しくするのは、そこに「意志と責任」の問題が介在してくるからだ。よく言われるものに、「アルコールをやめられないのは、あなたの意志が弱いからですよ」というのがある。この心無い発言は、確かに多くの人が言うものだし、情けないことに医療従事者ですら本気でそう思っている人が数多く存在する。だが、依存者の側からすると彼らの思いはそうではない。彼らだって自分の意志で飲みたくて飲んでいるわけでもないし、むしろ意志による飲酒ではないからこそ彼らは心底悩んでいるのである。ここには患者と医療者の齟齬がある。そして齟齬を抱えた治療はどこかに必ず綻びを生ずる。その原因は彼らの言語体系が実は異なる平面に存在しているということにある。患者は「中動態的世界」にいるが、治療者は「能動-受動的世界」で物事を理解しようとしている。

 

 「中動態」を知ることは、ケアに新たな切り口をもたらすだけではない。僕らはいかようにもその概念を活用できるのであって、つまりその活用法は無限にある。
 最近ふと思ったのが、「音楽を聴く」という行為は多分に「中動態的」である。一見すると僕らは自らの意志で聴く楽曲を「主体的に」選び、それをやはり「主体的に」聴いているように見えるが、よく考えるとそうではない。大体、「主体的に」音楽を選ぶというのは不可能ではないだろうか。なぜかというと、ふつうは、どこかで偶然に、本当にふとしたきっかけであるアーティストのある楽曲を耳にするというのが僕らの音楽との出会いの大半である。あるいは、誰かからこの曲いいよと推薦されて聴いてみたり、ネットで誰かが紹介しているから聴いてみたりという形で音楽と出会う。音楽は常に向こうの方からやってくる。だが、その楽曲を聴こうと動いてみるのは自分なのだから、そこには確かに「主体的な」意識が働いているかもしれない。しかし、音楽を聴くという行為のすべてが「主体的に」進むわけではないということはわかるだろう。その行為は明らかに「能動-受動」では捉えきれない何かだ。

 

 また、音楽を聴いている状態というのも考えてみると、我々は本当に音楽を「主体的に」聴いているだろうか。僕らはむしろ音を「主体的に」聴きにいっているというよりは、流れる音に身をまかせているといった方が正しくないだろうか。好きなアーティストの楽曲を聴いているとき、僕らは「個」として存在しているのではなくて、音と融合し、自分と音とが混然一体に溶け合った特異な時空に存在してはいないか。

 

 以上は僕の稚拙な議論だが、僕自身は、この音楽=中動態説を気に入っている。ある楽曲が頭にこびりついて離れない時がある。意識してその音楽を脳内から消し去ろうとすると逆に余計に鳴り響くようになる。それは決して自分の意志ではどうしようもできない。そんな経験が誰にでもあると思う。アルコール依存症というのはまさにそのような状態なのではないだろうか。これも僕の勝手な意見だが、このように考えるとアルコール依存症が、決して「能動-受動」の文脈だけでは理解できないものということがわかりやすくはないだろうか。

 

 恐ろしく売れている本だというのがうれしい。なぜなら中動態は誰もが知ったほうがよい類のものだからである。それを知ることで、意志と責任という文脈だけでは決して語りえない世界を語りうる、新たな文法を我々は手にすることができるのだ。