安楽椅子のモノローグ

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木下古栗―古栗Tシャツ欲しい

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木下古栗(きのした・ふるくり) 1981年、埼玉県生まれ。2006年に「無限のしもべ」で第49回群像新人文学賞を受賞。著書に『ポジティヴシンキングの末裔』『いい女vs.いい女』『金を払うから素手で殴らせてくれないか?』『グローバライズ』がある。

 木下古栗が、21世紀の有害図書No.1作家の位置をひた走りつづけるであろうことは、想像に難くない。公序良俗を重んじる現代教育の場において古栗の作品が読まれることは絶対にないし、善良な市民団体が彼の書物を焼き捨てる日もそう遠くはあるまい。100年後には「名前を言ってはいけないあの人」になっている可能性すら十分にある。発禁処分が下る前に、だが、僕らは木下古栗の作品を読んでおかねばならない。

 

 古栗の作品は、ナンセンスと滑稽さに支配されている。その独特な文体は他の追随を許さない。彼がどうやってこの文体を手に入れたか、知る由もないが、この言葉のセンスはそこいらの道端に落ちているような代物ではない。村上春樹は、文体を水脈や鉱脈の採掘に例えることがあるが、

 

穴を掘ると、運がよければ水脈にぶつかる。そこから「何か」が湧出してくる。それをすくい上げる。それが書くことだ

 

 古栗の場合は、故意に水脈の無い方に無い方に進んで行って、下水道を掘り当てて大喜びし、汚水と戯れているといった感じだろうか。「ハルキスト」の方々は、古栗の文章をどう評価するだろう。古栗ならどんなに間違っても次のような比喩表現はしない。

 

「もしもし、」と女が言った。それはまるで安定の悪いテーブルに薄いグラスをそっと載せるようなしゃべり方だった。
村上春樹 『風の歌を聴け』)

 

 ちなみに古栗を愛してやまない人々のことを「フルクリスト」というらしいが、「ハルキスト」からそろそろ苦情が出るだろう。(僕は、「フルクリスト」かつ「ハルキスト」ですよ。どちらの敵でもありません)

 

 古栗のレビューのはずなのに、村上春樹の文章ばかり引用している。これは「ハルキスト」としての僕が「フルクリスト」に汚染されるのを無意識のうちに避けようとしているのかもしれない(だが、今しがた「僕」と打とうとしたら「勃起」になっていた。すでに僕は古栗に汚染され始めている)。勇気を振り絞って古栗の文書を引用しよう。古栗の中でもごくマイルドなやつだ。

 

まったくもって毛深い体質ではなかったはずなのに、ある朝、純一郎が目覚めると、手足が自らの陰毛によって緊縛されていた…

 

いや、これはやめよう。古栗を不当に貶めることになるな。

 

じゃあ、『教師BIN☆BIN★ 竿物語』の一節…、ちょっと待てこれはあれだ、タイトルがすでにあれだ。

 

そうだ、『Tシャツ』にしよう。この中に出てくる、極上の会話文を堪能していただこう。ハワードと道真君と道真君の母との対話である。

 

 「道真君にコンドームをごっそりあげたのは私です。〔…〕道真君と初めて会った時、私は彼は自分に似ていると思いました。なぜなら道真君は出会い頭にいきなり、私の股間を鷲掴みにしてきたからです。普通は、たとえイタズラでも、そのような行動は慎むものです。しかし道真君は」「何を言ってるの、あなたは」眉間に皺を寄せる道真の母親。「お母さん、耳が痛いでしょうがこれは事実です。道真君は今、すごく道を誤りやすい年頃なんですよ。人間を形成するのは遺伝と環境の二つがあります。そんなに怖い顔をして、もしかして、お母さんも自分を抑えられないタイプではないですか?」急に笑い出す道真の母親。「長岡さんに聞いていたとおり、いや、聞きしに勝る本当に変な人ね」道真の母親は全然怒っていなかったのであった。「私がおかしいと思ったのは、このコンドームはどう見ても道真には大きすぎるからです」「そんなことないよ」「だまらっしゃい。お父さんですらこれは大きすぎるのよ、ましてやあなたが」「お母さん、人間を形成するのは遺伝と環境の2つがあります」

 

 うん。これなら「ハルキスト」も納得しそうだな。春樹でも書きそうな洒落た文章だ。

 

再び村上春樹を引用してみよう。

「あたしは四十五年かけてひとつのことしかわからなかったよ。こういうことさ。人はどんなことからでも努力さえすれば何かを学べるってね。どんなに月並みで平凡なことからでも必ず何かを学べる。どんな髭剃りにも哲学はあるってね、どこかで読んだよ。実際、そうしなければ誰も生き残ってなんかいけないのさ。」(村上春樹 『1973年のピンボール』)

 

 僕らは古栗から何かを学ぶことができるだろうか。古栗から何かを学ぼうと思ってはいけないという助言を聞くこともある。その意見はおおむね正しい。こんな中学生の下ネタ的発想で紙面を覆い尽くす作家から何かを学べるはずなんかない。下品で、猥雑で、グロテスクで、起承転結などありもしない、乱痴気騒ぎのような文章に何の教訓があるというのだ。しかし、僕は「ハルキスト」だ。教訓をあえて探したいと思う。

 

折しも本日のほぼ日「今日のダーリン」に横尾忠則の名言を見つけた。

 

「こういうふうに絵を描いていて、三角にするか四角にするか、決めるのは勇気なのよ。ここでやめちゃったっていいんだけど、それも勇気。なにやったっていいんだから、よく思われようとか、いい絵を描こうなんてことを考えてるとさ、勇気がなくなっちゃうんだよね。」

 

そうだ。木下古栗とは勇気なのだ。表現することの勇気、その具現者が木下古栗であるといえる。「ハルキスト」はやはり何からでも学べるんだぞ(冷や汗)。

 

あるいはこうも言える。

 

でもあえて凡庸な一般論を言わせてもらえるなら、我々の不完全な人生には、むだなことだっていくぶんは必要なのだ。もし不完全な人生からすべてのむだが消えてしまったら、それは不完全でさえなくなってしまう。(村上春樹 『スプートニクの恋人』)

 

そうだ。木下古栗とは不完全さなのだ。我々の不完全な人生を、完全に不完全であらしめるためにこそ木下古栗は存在するといえる。「ハルキスト」はやはり何からでも学べるんだぞ(冷や汗)。

 

木下古栗を読みたい方は、ぜひこの作品から読んでみてください。ただし、劇薬なのでご注意を。

金を払うから素手で殴らせてくれないか?

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