安楽椅子のモノローグ

完全なる頭でっかちを目指す

私の癒し―癒しとは詩である 『谷川俊太郎詩集』

今週のお題「私の癒やし」

 どうしようもなく(身とか心が)くたくたになっているときは、できるだけ何も考えないようにしている。近頃は、ずいぶんと寒くなってきたので、暖かいものが飲みたくなる。そんなに濃くないコーヒーとか、ホットジンジャーとか、ブランデーをちょっと垂らした紅茶とか。そんな飲み物をゆっくりと用意して、出来たての香りを嗅いで、そっと口に含む。身体が暖かくなる。

 

 ふっくらとしたソファに(このときばかりは安楽椅子ではない)座って、目を閉じる。今日も色んなことがあった。だけど、考えるのは今じゃなくていい。何も考えないで(それは言うほど簡単なことじゃない)、頭をからっぽにしてしまおう。好きな音楽をかけておくのもいい。もちろん、シンと静まりかえった静寂の中に身を置いてたって構わない。それから、ゆっくりと本を開く。疲れたときに読む本はいつだって決まっているのだ。

f:id:cannakamui:20171025221753p:plain

 谷川俊太郎の詩には、すべてが詰まっている。この世の真理を知りたければ、みんな彼の詩集を読めばいいのに。哲学者とか、科学者とか、小難しいことばっか言ってる人たちはみんな谷川俊太郎のことを知らないんじゃないかと思う。「あなたたちの知りたがってることは、みんなここに載ってますよ」と言ってやりたい(きっと彼らは聞く耳をもたないだろうけれど)。

 

 谷川俊太郎の詩には、孤独がある。不思議だけれど、僕は孤独によって癒されることがある。谷川俊太郎の詩には、悲しさがある。なぜだか知らないけれど、僕は精一杯悲しくなりたいときがある。谷川俊太郎の詩には、怒りがある。僕があいつに言ってやりたい言葉が、何て的確に書かれてるんだろう。谷川俊太郎の詩には、笑いがある。こんな短い詩の中に腹を抱えてしまうほどの笑いが詰まっている。谷川俊太郎の詩には、愛がある。愛は、この世で一番大切なものだろう? 谷川俊太郎の詩には、意味がない。きっとすべての詩には意味なんて無いのかも知れない。意味に疲れたときには、そんな詩がとても心地よい。

 

 谷川俊太郎の詩を読んでいると、言葉には色とか香りがあるんだなということに気づかされる。でもよく考えると当たり前だよな、と思う。だって僕らは毎日言葉に傷ついて、言葉で傷つけて、言葉に倦んで、言葉を無くして家に帰ってくるじゃないか。ぜんぶ言葉なんだよ。

 

 でも癒すのも言葉なんだ。だから、僕は谷川俊太郎の詩集を開く。ここには、僕を傷つける言葉はひとつもない。ゆっくりとページをめくる。言葉が僕の中にゆっくりと入ってくる。僕はゆっくりと言葉を取り戻す。

 

 谷川俊太郎の詩には、すべてが詰まっている。谷川俊太郎の詩は、僕がどんな気分のときにだって、僕の気分にぴったりあった言葉を用意してくれる。その詩は、僕に「僕が僕であっていい」ってことを教えてくれる。

 

僕の(そして谷川俊太郎ファンの誰もが)好きな詩をひとつ引用する。

 

生きる

生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
あなたと手をつなぐこと

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまが過ぎていくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ

 

癒しとは、谷川俊太郎詩集の謂である。