安楽椅子のモノローグ

完全なる頭でっかちを目指す

メフィスト賞の軌跡―その5 浦賀和宏

俺がそう決めたんだ。
誰にも文句は―言わせない。

  

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【あらすじ】
父が自殺した。突然の死を受け入れられない受験生・安藤直樹は父の部屋にある真っ黒で不気味な形のパソコンを立ち上げる。ディスプレイ上で裕子と名乗る女性と次第に心を通わせるようになる安藤。プログラムにしかすぎないはずの裕子の記憶が紐解かれ、浮上する謎。ミステリー界史上屈指の問題作が今甦る。
本書は先行作品に対する敬意ある挑発である。――京極夏彦(ノベルス刊行時)
(第5回メフィスト賞受賞作)

 

 Wikipedia浦賀和宏の経歴がねつ造されたものでなければ、彼がメフィスト賞を受賞したのは、20歳かそこらのことである。僕は、当時のことをよく覚えていないが、乾くるみ浦賀和宏積木鏡介(それぞれ第4回、5回、6回受賞者)の作品が3冊同時刊行されて話題となったらしい。これまた濃い面々だ。その後の、エンタテインメント界の新しい流れがようやく築かれつつある時代で、懐かしさすら感じる。こうやってメフィスト賞を一から(本当はゼロからだが)読み返してみると、それは広くエンタテインメント界の歴史をなぞることにもなるのだ。まだ「若い」賞だと思っていたが、ここまでくるとそろそろ歴史の重みを感じさせる賞になってきた感がある。

 

 浦賀和宏の作品は1作のみで語ることはできない。常に連作を意識して描いているのかどうかはわからないが、1作目で明らかにされない謎が多数出てくる。デビュー作の『記憶の果て』すら、例外ではない。デビュー作といえば、わかりやすく、読みやすく、1作できちんと解決するが常識であろうが、浦賀は小気味よいほどに、その常識を無視する。最後まで読んでも謎だらけである。伏線の回収がなされない。「ここまで引っ張っといてなんもなしかい!」と叫ぶ読者多数であろう。だが、それでよいのである。

 

 浦賀和宏は既存のミステリを嫌悪しているように見える。探偵という存在、明快なプロット、「必ず」回収される「よくできた」物語、理路整然とした論理的解決、浦賀はことごとくそれらを無視しつづける。そういった完成系としてのミステリ、ひいては文学そのものとの対決姿勢を、デビュー作からもありありと感じとることができる。『記憶の果て』という小説は、エンタテインメント作品としてもよくできた小説だが、その作品自体が、既製文学に対する批判の書として機能しているのだ。

 

 佐藤友哉西尾維新(彼らもメフィスト賞受賞者だ)の作品の主人公もそうだが、本作の主人公である安藤直樹も、強烈に肥大した自己意識を持っている若者だ。その若者が、これまた強烈な自分語りをしながら、話が進んでいく。若者はみんな屈折しているものだ(僕はいまだに屈折している)が、これほどまでに見事に卑屈な男を見ると逆にすがすがしくなる。彼は父の残したコンピュータ上にしか存在しない「裕子」と対話し、魅了されながら物語は進展していく。このコンピュータ上にしか存在しない女性「裕子」と直樹の関係を主軸にした設定というのは、当時の時代背景を反映したものであろう。ちょうどコンピュータが我々の日常生活に浸透し始め、美少女ゲームにハマる若者が増え始めた時期である。このすぐ後に、東浩紀は『動物化するポストモダン』を上梓し、一躍時の人となった、そんな時代だ。

 

 ネタバレになるので詳しくは語らないが、文化的禁忌事項に躊躇なく踏み込んでいくのは、浦賀和宏佐藤友哉西尾維新(いわゆる脱格系)の大きな特徴である。本作は、デビュー作ということもあって、遠慮がちにはなっているが、それでもかなりの紙面を割いて、禁忌事項に切り込んだ描写が見られる。禁忌事項を積極的に取り入れ、それを軽やかに(揶揄しているわけではなく)弄ぶことができるのが、この新しい世代なのだ。また、「セカイ系」という言葉が、まだ生きているのか死語になってしまったのか、よくわからないが、この作品はそれに近い形態のものであろうかとも思われる(もちろん世界を救う話などではないが)。

 

 僕は、浦賀和宏には当初からとても好印象を持っている。いまや押しも押されぬ有名作家になったので、うれしい限りだ。しかし、彼の作家としての道のりは、決して平たんではなかった。デビュー作というのは、良くも悪くも、作家のイメージに大きな影響を与えてしまう。デビュー時からこのような問題作を産み出したことは、浦賀和宏にとって、それほど幸運なことではなかったのかもしれない。だが、若いということは何をやってもよいということなのだから、これでよかったのだと僕は思う。その後の浦賀は、手探りを繰り返し、いろんな実験的ミステリを描きながら、堂々と今の地位を確立した。

 

 本作は安藤直樹シリーズとして驚くべきことに今も続く「シリーズもの」と化している。これほどぶっ壊れた世界を連作として描き続けることに、僕は度肝を抜かれた覚えがある。本作では脇役だったものが主役になり、本作では語られなかった伏線が語られていく。しかし、浦賀和宏はすべての物語をきれいに、回収して終わろうなどという、ありきたりな良心は持ち合わせていないことに注意しよう。

 

 浦賀和宏以降の脱格系は、デビュー時からより洗練された形で作品を書き、純文学の領域にも華麗に進出するようになった。それは彼らの筆力が優れているのは、もちろんなのだが、それだけではなく、浦賀和宏の存在が大きいだろう。浦賀が本作『記憶の果て』において、脱格系のプロトタイプを鮮やかに提示してくれたからこそ、以降の書き手たちはそれを下地にして、より優れた書き方を創出できるようになっていったのである。

 

前回のは、こちら。