安楽椅子のモノローグ

完全なる頭でっかちを目指す

メフィスト賞の軌跡―その2 清涼院流水

 【あらすじ】
『今年、1200個の密室で、1200人が殺される。誰にも止めることはできない』―1994年が始まったまさにその瞬間、前代未聞の犯罪予告状が、「密室卿」を名のる正体不明の人物によって送りつけられる。1年間―365日で1200人を殺そうと思えば、一日に最低3人は殺さねばならない。だが、1200年もの間、誰にも解かれることのなかった密室の秘密を知ると豪語する「密室卿」は、それをいともたやすく敢行し、全国で不可解な密室殺人が続発する。現場はきまって密室。被害者はそこで首を斬られて殺され、その背中には、被害者自身の血で『密室』の文字が記されている…。

 

 新しすぎる小説だ、と思った。分厚いのは、当時の流行だったとしても、内容が斬新すぎる。

 

犯罪予告状/今年、一二〇〇個の密室で、一二〇〇人が殺される。誰にも止めることはできない/密室卿

 

 次から次へと密室殺人が起こる。これだけでも斬新だった。しかも、すべてが衆人環境での出来事である。ある意味完全無欠の密室。しかも、密室卿の殺人は常に完璧である。誰ひとり目撃者はいない。いつの間にか、だが、確実に、狙われた者は命を奪われる。怒涛の展開に読者は???の連続だ。今までミステリを読んで、これほどクエスチョンマークが頭の中を駆け巡った経験はなかった。風呂敷を広げ過ぎだ、と作者に忠告したくなるほどの破天荒な展開が続く。途中からは、「これ本当に終わるの?」と不安になってくる。

 

 だが、作者の追い討ちは終わらない。圧巻なのは、半分を超えてからなのだ。JDC(日本探偵組織)という存在が明らかにされる。そこに集うのは、超絶能力を有する探偵ばかり。この能力というのがまた人を食っている。そんな能力あるか!と必ず心の中で叫ぶだろう。例えば、鴉城蒼司(あじろそうじ)。彼は集中考疑という能力で、一瞬で事件を解決してしまう。例えば、九十九十九(つくもじゅうく)。彼の神通理気は、事件の手がかりがすべて揃うと、一瞬にして事件の真相を知る能力である。何を言っているかお分かりになるだろうか。いや、分からなくともよい。ともかく、もはやこの作者は、話を無事に終わらせる気はないのだろうな、と諦めにも似た心境で読者はページを繰ることとなるだろう。挙句の果てに、「読者への挑戦状」とくる。悪ふざけもいい加減にしろとたしなめたくなる気持ちがふつふつと湧きあがってくる。

 

 では、結末はというと、これがまた、賛否両論、毀誉褒貶の嵐なのだった。傑作、名作、快作、怪作、凡作、駄作、死ね。およそ作品というものに対するあらゆる賛辞と侮蔑の言葉がほうぼうから巻き起こった。天才だの、狂人だの、作者に投げかけられる言葉もとにかく色々だった。僕は作者の擁護も批判もしていない。正確にはどちらもできなかったのである。僕は思考を整理することができなかった。「俺は一体何を読まされたんだ…」と呆然とし、思考停止状態になってしまっていたからである。

 

 普通の小説でないのは、もちろんわかっていた。だが、物語の収束のさせ方が半端ない。予想をはるかに上回る。予想のななめ上などという生易しい言葉では表現してもしつくせない。エベレスト並みに高い位置に清涼院流水の思考は存在する。解はすべて提示された、にもかかわらず、読者はそれを信じることができないだろう。これがミステリ小説…だと?

 

 いや違う。清涼院流水がきっぱりと言い放っているではないか、これは小説ではない。「流水大説」なのだ、と。ここまでくるともう…、ね。作者の感性に脱帽するしかないのだ。清涼院流水って天才じゃね? と誰もが思ってしまう。事実、天才であろう。

 

 21世紀最初の京都大学中退者であり、作家の英語圏進出プロジェクト「The BBB」の主宰であり、TOEIC満点ホルダーであり、いつの間にか僕の知らないうちに英語教育者としても名を馳せている。これを天才と言わずしてなんと言おう。清涼院流水は、いわゆる、author’s authorなのである。事実、芦辺拓我孫子武丸綾辻行人有栖川有栖笠井潔北村薫京極夏彦倉知淳篠田真由美二階堂黎人貫井徳郎法月綸太郎麻耶雄嵩山口雅也などの名だたるミステリ作家が、当時みんなして朝まで清涼院流水について語り合ったというではないか。

 

 今回、久しぶりに、メフィスト賞受賞作である『コズミック』を読み直してみたが、今でもやはり新しすぎる、というのが僕の感想だ。清涼院流水は時代を振り切っていたが、未だに振り切り続けている。この「大説家」の疾走が古びたと言えるときは、人類滅亡の瞬間まできっとこないだろうと、僕は心の底からそう思う。

 

 ちなみに今までのレビューはこちら。


 

ニューロマンサー―それはすべてのサイバーパンクの母型

 サイバーパンクという言葉を僕が初めて聞いたのは、士郎正宗攻殻機動隊』に関する書評を読んだときだった、というおぼろげな記憶がある。僕は『攻殻機動隊』はアニメばかり観ていたから、コミックの方を読んだときは、テイストの違いに結構驚いたものだ。なるほど、こういうのをサイバーパンクというのか、と妙に納得した覚えがある。それから、また、しばらく経ってから、サイバーパンク聖典と呼ばれるSF小説があることを知った。それが『ニューロマンサー』であった。 

 

ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

 

 【あらすじ】
ハイテクと汚濁の都、千葉シティの空の下、コンピュータ・ネットワークの織り成す電脳空間を飛翔できた頃に思いを馳せ、ケイスは空虚な日々を送っていた。今のケイスはコンピュータ・カウボーイの能力を奪われた飢えた狼。だが、その能力再生を代償に、ヤバい仕事が舞いこんできた。依頼を受けたケイスは、電脳未来の暗黒面へと引き込まれていくが・・・・・・新鋭が華麗かつ電撃的文体を駆使して放つ衝撃のサイバーパンクSF!

 

 港の空の色は、空きチャンネルに合わせたTVの色だった。

 

というSF史上、稀に見る名文から始まる本作を、初めて読んだときのあの得も言われぬ興奮は、いまだに僕の体内に残っている。次から次に登場するおびただしい造語の群れで頭がパンクしそうになる。退廃した近未来のイメージが、さながら万華鏡のようにめまぐるしく移り変わり、脳裏に残像が刻まれる。ほとんどの文章を頭で明快に理解することはできない。『ニューロマンサー』は頭で読む書物ではないのだ。だが、僕の中の何かがこの小説に強く反応した。

 

 電脳世界への「没入(ジャック・イン)」、身体改造、視覚像の投影、ROMとしてだけ存在する疑似人格、臓器移植や神経接合や微細生体工学と同義語となった千葉、共感覚幻想としてのマトリックス、擬態ポリカーボン……
 鳥肌の立つようなガジェットの群れが、本作には登場する。イメージせよ、と言われても容易にイメージすることはできないものもある。想像力がぶっ飛んでいるのだ。ひとつくらいならば僕でも創り上げることはできるかもしれない。しかし、これらイメージの群れをひとつ残らず掴まえて、形にし、ましてや、そこから長い物語を作るなど常軌を逸した精神である。ウィリアム・ギブスン自体が並列処理機械なのではなかろうか。思考のスピードが恐ろしく速い。

 

 電脳世界を舞台とした小説やアニメは山のようにあるが、『ニューロマンサー』を読んだ後では、それらは児戯にも等しいもののように思えてくる。それらは『ニューロマンサー』のガジェットをいくつか取り出して再構成されたものに過ぎない。『ニューロマンサー』は今ある電脳的作品のアイデアの源流なのだ。すべての電脳的作品は『ニューロマンサー』に通じている。

 

「悪魔を呼び出すには、そいつの名前を知らなくちゃならない。人間が、昔、そういうふうに想像したんだけど、今や別の意味でその通り。わかってるだろ、ケイス。あんたの仕事はプログラムの名前を知ることだ。長い正式名。持ち主が隠そうとする名。真(まこと)の名―」
チューリング暗号(コード)はおまえの名前じゃない」
ニューロマンサー
と少年は、切れ長の灰色の眼を、昇る朝日に細め、
「この細道が死者の地へとつながる。つまり、あんたが今いるところさ。お友だち。マリイ=フランスが、わが女主人がこの道をととのえたんだけど、そのご亭主に縊り殺されて、予定表を読ませてもらいそこなった。ニューロは神経、銀色の径。夢想家(ロマンサー)。魔道師(ネクロマンサー)。ぼくは死者を呼び起こす。いや、違うな、お友だち」

 

 タイトルにも意味が何重にも張り巡らされている。これほど簡潔にして、しかし、マルチミーニングなタイトルを持つ作品が他にあるだろうか。『ニューロマンサー』がSFの歴史に名を残すことは、このタイトルからしてすでに決定されていたといえるだろう。

 

 サイバーパンクは今やSFの何の変哲もないジャンルのひとつとなった。しかし、『ニューロマンサー』を上書きし、それを乗り越えた作品はいまだにない。それは喩えるなら、ノイマン型コンピュータのようなものだろうか。

 

 『ニューロマンサー』はサイバーパンクのひとつなどでは決してない。すべてのサイバーパンクが『ニューロマンサー』の亜型なのである。そこを取り違えてはならない。

睡眠の科学・改訂新版―人体最大の謎・睡眠の秘密に迫る

神は現世におけるいろいろな心配事のつぐないとして、われわれに希望と睡眠とを与え給うた。(ヴォルテール

 

 僕は睡眠医学について、全くの門外漢である。しかし、専門外の僕から見ても近年、「睡眠」に対する注目がますます増加していることはわかる。不眠、ナルコレプシー、REM睡眠行動障害、夢中遊行症・・・・・・睡眠にまつわる病いは数多く存在し、多くの人を悩ませている。人は「睡眠」から自由であることは決してできない。もしも「睡眠」の支配から逃れ得たとして、その人を待っているのは幸せではなく、絶望である。「睡眠」は、生物にとって必要不可欠な生理的現象なのだ。だが、なぜ我々は眠らなければならないのか、と問うてみるとき、その問いに正確な答えを与えることのできる人間はまだいない。そのような状況の中、「睡眠」の謎に最も肉薄した男がいる。現生人類で「睡眠」の謎に最も漸近したその男の名は、言うまでもなく、櫻井武である。

  『睡眠の科学』がこの度改訂された。睡眠について知りたければ、まずこの本を読めばよい。いや、読むべきである。読まなければならない。この本には睡眠医学の「肝(キモ)」がすべて掲載されている。読者はこの本を足がかりとして、睡眠医学という現代医学最大の迷宮にどの入口からでも入ることが可能となる。「なぜ眠るのか」という哲学的問いから入るのも良い、あるいは、神経伝達物質と眠りの関連から入るのも良い。はたまた、薬理学的作用という観点から入るのも良いだろう。睡眠医学へのアプローチにとって、本書を超える本はない。

 

 改訂理由は、最新知見の発見による。例えば、2012年にその存在が示された「グリンパティックシステム」についての言及がなされている。脳にはリンパ系が存在しないとされる(だが、脳に悪性リンパ腫原発するのはどうしてだろう?)。リンパ系は老廃物の処理を行うために必要なのだが、では、脳ではどのようにして脳内の老廃物を処理しているのか。実はグリア細胞が行っているのだ。グリアがあたかもリンパ系のように働くため「グリンパティック」と名づけられたのである。それだけではない、この「グリンパティックシステム」は、ノンレム睡眠のときに働いていることも示された。つまり、眠らなければ脳内の老廃物処理システムは機能しない可能性があるのだ。これと関係しているかどうかは不明だが、マウスを用いた実験では、不眠マウスの脳内にはアルツハイマー病の原因物質とされるアミロイドβという老廃物が蓄積されることが示されている。

 

 ところで、櫻井は覚醒を司る物質である「オレキシン」の発見者である(ちなみに彼は「エンドセリン受容体」の発見者でもある)。オレキシンオレキシン受容体に結合することでその作用を発揮し、ヒトを覚醒へと導く。2014年には、この結合を阻害する「オレキシン受容体拮抗薬」が発売され、不眠治療の新たな一歩が刻まれた。それまでとは全く違う薬理学的機序による薬剤の登場は不眠治療の選択肢を広げた。不眠治療は大きな転換点を迎えつつある。(下はオレキシン発見が掲載されたときの『Cell』の表紙)

               

  日本が、睡眠医学の分野で世界をリードしていることを知らない人もいるだろう。この本を読めば、現在、睡眠について何がわかっていて、何がわかっていないのかがはっきりとする。なにせ、著者が櫻井武である。世界に名だたる睡眠医学大国日本が誇る、最高の睡眠研究者櫻井武である。ここに書かれていることは、現在睡眠についてわかっていることのほとんど全てであり、これを読めば睡眠医学の最先端に限りなく近づくことができる。

 

 とても平易に書かれている。その平易さは、櫻井武が睡眠について、この上なく深く理解しているからこそ達成できる平易さである。この平易さにつられて僕らはどんどん読み進んでいくことができる。そして、この本を読了したとき、僕らがいる地点こそ睡眠医学のフロンティアなのだ。

メフィスト賞の軌跡―その1 森博嗣

「先生……、現実ってなんでしょう?」
萌絵は小さな顔を少し傾けて言った。
「現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ」
犀川はすぐ答えた。「普段はそんなものは存在しない」

 

 森博嗣について、今さら何か語るなんてとても気恥ずかしい気持ちになってくる。僕が今日ここで語ることは、すでに他の誰かが、語っているに違いない。しかも、僕より優れたやり方で。しかし、昨日天啓のように閃いた、メフィスト賞受賞作をすべて(断続的にはなるが)レビューする(これもすでに誰かがやっているだろうけれど)という計画を遂行するために、避けて通ることはできない。

  

すべてがFになる (講談社文庫)

すべてがFになる (講談社文庫)

 

【あらすじ】
孤島のハイテク研究所で、少女時代から完全に隔離された生活を送る天才工学博士・真賀田四季。彼女の部屋からウエディング・ドレスをまとい両手両足を切断された死体が現れた。偶然、島を訪れていたN大助教授・犀川創平と女子学生・西之園萌絵が、この不可思議な密室殺人に挑む。新しい形の本格ミステリー登場。  

 

 受賞作『すべてがFになる』は、ミステリ界に大金字塔を打ち立てた。それは地球が滅びない限りビクともしない、決して色褪せもしない、どえらい金字塔である。今もミステリ界の中心にそびえたっているし、その座が奪われることもない。森以降に現れた「理系ミステリ」は、当然、森と比較されこととなるし、どうあがいたって森を意識せざるを得なくなるという意味で悲劇である。

 

 何もかもが衝撃的だったとしか言いようがない。冒頭、西之園萌絵真賀田四季の会話がいきなり衝撃的である(小説本編に入る前に青木淳オブジェクト指向システム分析設計入門』が引用されていることがすでに衝撃なのだが)。

 

「〔…〕1から10までの数字を二組に分けてごらんなさい。そして、両方とも、グループの数字を全部かけ合わせるの。二つの積が等しくなることがありますか?」
「ありません」萌絵は即答した。「片方のグループには7がありますから、7の倍数になりますけど、もう片方には7がないから等しくはなりません」
「ほら、7だけが孤独でしょう?」

 

かっこよすぎる。この時点で僕は鳥肌が立った。

 

 タイトルが衝撃的である。このタイトルに込められた意味は作品を最後まで読んで初めて理解されることとなる。「うわぁ、ここで出てくるか! もう、やられた!」という感想しかない。だが、それだけではない。副題すらが秀逸なのだ。THE PERFECT INSIDER あんぐりと開いた口が塞がらなくなる。しかも、この後に続く、S&Mの連作を最後まで通読して改めて眺めると、よりこの副題の味わいが深くなってくる。どこまで、計算してんだよ!とツッコミたくなる。

 

 言わずもがな、トリックが衝撃的である。本格の醍醐味「密室殺人」に真っ向から挑戦し、歴史上類を見ないトリックで読者を唖然とさせた。素人から玄人まで誰もが驚嘆したのだ。なんだそのトリックは! 誰も思いつかねぇよ! しかし、誰も文句を言うことができなかった。論理的整合性がすべて保たれていたからだ。足りないのは僕らの想像力の方なのだった。その想像力とは「工学的想像力」である。森の作品は「理系ミステリ」と呼ばれるが、僕はあえて「工学的ミステリ」と呼びたい(すでに誰かが呼んでいるかもしれないが)。

 

 研究に対する深い洞察をミステリに盛り込んだのも、森博嗣が初めてだろう。まずもって、国立大学助教授でかつミステリ作家などという存在が初めてではないか。
 S&Mシリーズ2作目『冷たい密室と博士たち』からの引用であるが、高校数学に出てくる公式が何の役に立つかという(僕もこれまで何度もこの質問をされた経験がある)質問に対する犀川の回答である。

 

「何故、役に立たなくちゃあいけないのかって、きき返す。〔…〕だいたい、役に立たないものの方が楽しいじゃないか。音楽だって、芸術だって、何の役にも立たない。最も役に立たないということが、数学が一番人間的で純粋な学問である証拠です。人間だけが役に立たないことを考えるんですからね……。〔…〕そもそも、僕たちは何かの役に立っていますか?」

 

 これは研究者を励ます言葉である、と同時に、実用性ばかりを求める生き方に省察を促す言葉でもある。研究を志望する若者には森ミステリを読んで欲しいと思う。典型的な科学啓蒙書を読むよりか、何十倍もためになるから。

 

 森博嗣の運営するサイト森博嗣の浮遊工作室もぜひ覗いてみてもらいたい。森博嗣のアイデアの源泉がどこから来ているのか、きっとわかるだろう。

 

メフィスト賞の軌跡―その0 京極夏彦

 京極夏彦がミステリ界に及ぼした影響は計り知れない。いや、ミステリ界と限定する必要は全くない。京極夏彦は広く日本のエンタテインメントを改革したと言っても言い過ぎではない。いくつか列挙してみよう。

 

  1. 京極夏彦がいなければメフィスト賞は誕生しなかった
    在野には、ものすごい才能をもつ書き手たちがいる。その可能性を京極夏彦講談社に提示してみせたからこそ、メフィスト賞は誕生したのだ。そして、実際恐るべき才能が今でも発掘され続けている。彼がいなければ、現在名作と言われる、ミステリを含むエンタテインメント作品の少なからずが誕生していないだろう。
  2. 妖怪の再発見
    日本の妖怪は1990年代の後半には消滅しつつあった。もちろん、一部のコアな層によって、その灯火は絶やされぬよう守られていただろうが、公にはそれほど人気のあるジャンルではなかった。しかし、妖怪の伝承をモチーフに用いながらもミステリの枠を忠実に守るという京極夏彦独特の「妖怪小説」の登場によって、妖怪は平成の世に復権を果たした。
  3. 純文学と大衆文学との垣根の破壊
    京極夏彦においては、ミステリという体面はまだしっかりと保持されてはいるものの、そこには純文学的な要素もふんだんに盛り込まれている。作中人物たちが民俗学、科学、心理学などについて豊富な知識をひけらかし、また、それが本編の内容に密接にリンクするという形式は、今でこそ多くのミステリ作家が踏襲しているが、当時はとても斬新だった。また、ミステリにおける謎解きの占める比重がそれほど大きくなくなっていくのも京極以降である。この傾向が突き詰められることで、舞城王太郎佐藤友哉などのジャンル横断的作家が生み出された。
  4. 作品は鈍器であることを世に知らしめた
    京極夏彦の作品はことごとく鈍器である。まるでミステリ小説は鈍器でなければならないとでも言っているかのようである。メフィスト賞応募者が、すさまじい量の原稿用紙を送るようになったのも京極夏彦を倣ってのことであろう。それはまるで鈍器的作品のみが名作であるという価値観を作家志望者に植え付けた。形式が本質を凌駕したのだ。
文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

 【あらすじ】
この世には不思議なことなど何もないのだよ――古本屋にして陰陽師(おんみょうじ)が憑物を落とし事件を解きほぐす人気シリーズ第1弾。東京・雑司ヶ谷(ぞうしがや)の医院に奇怪な噂が流れる。娘は20箇月も身籠ったままで、その夫は密室から失踪したという。文士・関口や探偵・榎木津(えのきづ)らの推理を超え噂は意外な結末へ。京極堂、文庫初登場! 
 

  『姑獲鳥の夏』は記念すべきメフィスト賞第0回受賞作である。枚数自体すでに圧巻であるが、これを仕事の片手間に書いたということがさらなる驚きである。そして、この才能を見逃さなかった講談社編集部も素晴らしい。妖怪伝承という古びたモチーフを用いながらも、冒頭の京極堂と関口の会話では、量子力学脳科学に関するエピソードが語られ、それが作品にそれまでのミステリ小説にない新しさを与えている。

 

 あまりにも冗長すぎる語りは、時として批判の的となることもあるようだが、むしろこの冗長さが京極作品の売りである。冗長であることは、退屈とは全く同義でない。文章の合間合間に本質を穿つような鋭い名言が飛び出し、注意深い読者であれば、そこに作者の才能を垣間見て感嘆するはずだ。長い文章にてわざと読者の頭脳を酩酊状態にしようという意図もあるのかもしれない。実際、一見事件とは無関係に見えるような記述が、トリックに大きく関わっている。

 

 『姑獲鳥の夏』のトリックは驚くべきものである。すでに多くの読者はこの作品を既読のことと思われるが、未読の方には、読むことを強くお勧めする。このようなトリックがありえるのかどうか、これまでも議論の的となっているが、僕の立場は「絶対あり」だ。ネタバレはしたくないので、多くを語らないが、ミステリ史上に残るトリックである。

 

 僕らは京極以降を生きている。若い人たちは生まれながらにすでに京極以降を生きているために気づかないかもしれないが、京極以前と以後は全く違う世界なのである。すでに『姑獲鳥の夏』が古典になっているいま、ぜひとも読み返されるべき作品だ。ゼロ年代以降のすべての物語の始原といってもよい、革命的作品である。

木下古栗―古栗Tシャツ欲しい

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木下古栗(きのした・ふるくり) 1981年、埼玉県生まれ。2006年に「無限のしもべ」で第49回群像新人文学賞を受賞。著書に『ポジティヴシンキングの末裔』『いい女vs.いい女』『金を払うから素手で殴らせてくれないか?』『グローバライズ』がある。

 木下古栗が、21世紀の有害図書No.1作家の位置をひた走りつづけるであろうことは、想像に難くない。公序良俗を重んじる現代教育の場において古栗の作品が読まれることは絶対にないし、善良な市民団体が彼の書物を焼き捨てる日もそう遠くはあるまい。100年後には「名前を言ってはいけないあの人」になっている可能性すら十分にある。発禁処分が下る前に、だが、僕らは木下古栗の作品を読んでおかねばならない。

 

 古栗の作品は、ナンセンスと滑稽さに支配されている。その独特な文体は他の追随を許さない。彼がどうやってこの文体を手に入れたか、知る由もないが、この言葉のセンスはそこいらの道端に落ちているような代物ではない。村上春樹は、文体を水脈や鉱脈の採掘に例えることがあるが、

 

穴を掘ると、運がよければ水脈にぶつかる。そこから「何か」が湧出してくる。それをすくい上げる。それが書くことだ

 

 古栗の場合は、故意に水脈の無い方に無い方に進んで行って、下水道を掘り当てて大喜びし、汚水と戯れているといった感じだろうか。「ハルキスト」の方々は、古栗の文章をどう評価するだろう。古栗ならどんなに間違っても次のような比喩表現はしない。

 

「もしもし、」と女が言った。それはまるで安定の悪いテーブルに薄いグラスをそっと載せるようなしゃべり方だった。
村上春樹 『風の歌を聴け』)

 

 ちなみに古栗を愛してやまない人々のことを「フルクリスト」というらしいが、「ハルキスト」からそろそろ苦情が出るだろう。(僕は、「フルクリスト」かつ「ハルキスト」ですよ。どちらの敵でもありません)

 

 古栗のレビューのはずなのに、村上春樹の文章ばかり引用している。これは「ハルキスト」としての僕が「フルクリスト」に汚染されるのを無意識のうちに避けようとしているのかもしれない(だが、今しがた「僕」と打とうとしたら「勃起」になっていた。すでに僕は古栗に汚染され始めている)。勇気を振り絞って古栗の文書を引用しよう。古栗の中でもごくマイルドなやつだ。

 

まったくもって毛深い体質ではなかったはずなのに、ある朝、純一郎が目覚めると、手足が自らの陰毛によって緊縛されていた…

 

いや、これはやめよう。古栗を不当に貶めることになるな。

 

じゃあ、『教師BIN☆BIN★ 竿物語』の一節…、ちょっと待てこれはあれだ、タイトルがすでにあれだ。

 

そうだ、『Tシャツ』にしよう。この中に出てくる、極上の会話文を堪能していただこう。ハワードと道真君と道真君の母との対話である。

 

 「道真君にコンドームをごっそりあげたのは私です。〔…〕道真君と初めて会った時、私は彼は自分に似ていると思いました。なぜなら道真君は出会い頭にいきなり、私の股間を鷲掴みにしてきたからです。普通は、たとえイタズラでも、そのような行動は慎むものです。しかし道真君は」「何を言ってるの、あなたは」眉間に皺を寄せる道真の母親。「お母さん、耳が痛いでしょうがこれは事実です。道真君は今、すごく道を誤りやすい年頃なんですよ。人間を形成するのは遺伝と環境の二つがあります。そんなに怖い顔をして、もしかして、お母さんも自分を抑えられないタイプではないですか?」急に笑い出す道真の母親。「長岡さんに聞いていたとおり、いや、聞きしに勝る本当に変な人ね」道真の母親は全然怒っていなかったのであった。「私がおかしいと思ったのは、このコンドームはどう見ても道真には大きすぎるからです」「そんなことないよ」「だまらっしゃい。お父さんですらこれは大きすぎるのよ、ましてやあなたが」「お母さん、人間を形成するのは遺伝と環境の2つがあります」

 

 うん。これなら「ハルキスト」も納得しそうだな。春樹でも書きそうな洒落た文章だ。

 

再び村上春樹を引用してみよう。

「あたしは四十五年かけてひとつのことしかわからなかったよ。こういうことさ。人はどんなことからでも努力さえすれば何かを学べるってね。どんなに月並みで平凡なことからでも必ず何かを学べる。どんな髭剃りにも哲学はあるってね、どこかで読んだよ。実際、そうしなければ誰も生き残ってなんかいけないのさ。」(村上春樹 『1973年のピンボール』)

 

 僕らは古栗から何かを学ぶことができるだろうか。古栗から何かを学ぼうと思ってはいけないという助言を聞くこともある。その意見はおおむね正しい。こんな中学生の下ネタ的発想で紙面を覆い尽くす作家から何かを学べるはずなんかない。下品で、猥雑で、グロテスクで、起承転結などありもしない、乱痴気騒ぎのような文章に何の教訓があるというのだ。しかし、僕は「ハルキスト」だ。教訓をあえて探したいと思う。

 

折しも本日のほぼ日「今日のダーリン」に横尾忠則の名言を見つけた。

 

「こういうふうに絵を描いていて、三角にするか四角にするか、決めるのは勇気なのよ。ここでやめちゃったっていいんだけど、それも勇気。なにやったっていいんだから、よく思われようとか、いい絵を描こうなんてことを考えてるとさ、勇気がなくなっちゃうんだよね。」

 

そうだ。木下古栗とは勇気なのだ。表現することの勇気、その具現者が木下古栗であるといえる。「ハルキスト」はやはり何からでも学べるんだぞ(冷や汗)。

 

あるいはこうも言える。

 

でもあえて凡庸な一般論を言わせてもらえるなら、我々の不完全な人生には、むだなことだっていくぶんは必要なのだ。もし不完全な人生からすべてのむだが消えてしまったら、それは不完全でさえなくなってしまう。(村上春樹 『スプートニクの恋人』)

 

そうだ。木下古栗とは不完全さなのだ。我々の不完全な人生を、完全に不完全であらしめるためにこそ木下古栗は存在するといえる。「ハルキスト」はやはり何からでも学べるんだぞ(冷や汗)。

 

木下古栗を読みたい方は、ぜひこの作品から読んでみてください。ただし、劇薬なのでご注意を。

金を払うから素手で殴らせてくれないか?

金を払うから素手で殴らせてくれないか?

 

 





 

皮膚感覚と人間のこころ―最大にして最強の臓器”皮膚”

皮膚感覚と人間のこころ (新潮選書)

皮膚感覚と人間のこころ (新潮選書)

 

  外界と直接触れ合う皮膚は、環境の変化から生体を守るだけでなく、自己と他者を区別する重要な役割を担っている。人間のこころと身体に大きな影響を及ぼす皮膚は、脳からの指令を受ける一方で、その状態を自らモニターしながら独自の情報処理を行う。その精妙なシステムや、触覚・温度感覚のみならず、光や音にも反応している可能性など、皮膚をめぐる最新研究。

 

突然ですが、問題です。

「生物は周囲から物質をとりこみ、それを放出してその形を保っている。琵琶湖は周囲の河川から水をとりこみ、淀川に水を放出してその形を保っている。琵琶湖は生物であるか否か、論ぜよ」

  この問題は傳田光洋が高校時代に受けた期末試験で実際に出題された問題である。傳田は、今でも上の試験問題が記憶に鮮明に残っているという。彼は生命科学の研究者となった。優れた問いは、優れた研究者を生む。

 

 本書には、皮膚に関する最新の知見がわんさか盛り込まれている。実に様々な角度から、皮膚を照らす。皮膚に対する我々の旧態依然とした固定観念をひっくり返すような驚きの内容が満載だ。恐らくは、文学に対する造詣も深いのだろう。要所要所で有名な文学作品の1節が引用され、それが本書を単なる科学啓蒙書に陥らせない個性を与えている。だが、それはまた、これまで数多の文学者が、皮膚について思いを馳せてきた証左でもあろう。文学的発想は、ときに科学よりも科学的であることがある。分野の垣根を越えた学際的研究もさかんに行われるようになっているが、科学と文学とのコラボレーションも今後ますますさかんになるといいな、と思う。

 

 これまで多くの方々が、人体最大の臓器についての話を僕に聞かせてくれた。人体最大の臓器は、ときに脳であり、ときに心臓であり、ときに肝臓であったりした。またあるときは脂肪というのもあったし、副腎などという聞きなれない臓器のこともあった。何が最大であるかは定義によって異なるし、みんな違ってみんないい、よね。
 だが、本書を読めばあなたの臓器観(そんなものがあるとして)は様変わりするだろう。すなわちこうである(今の僕)。
「人体最大にして最強の臓器は皮膚である」

 

 第1章から知的興奮をMAXにする内容となっている。生育時に親から皮膚をきれいにされたり、なめられたりせずに放置されたラットでは、ストレスホルモンであるグルココルチコイドを受け取る受容体の数が少なくなるという。グルココルチコイド受容体はグルココルチコイドの分泌が過剰にならないよう抑えるフィードバック機構で重要な働きをしているため、この受容体の数が少ないとストレス下に置かれる時間が長くなってしまうのだ。その結果、放置ラットは自分の子の世話をしなくなってしまう。
 受容体の減っている原因はDNAのメチル化によるものである。DNAはメチル化されるとOFF状態となり、タンパク質合成ができなくなるという性質を持っている。そのため、グルココルチコイド受容体の合成がストップするというわけである。
 僕はここですでに仰天した。皮膚刺激が遺伝子発現の調節の引き金になってるだって!そんなの聞いたことなかった。

 

 つかみはOK過ぎるほどOKだ。ここから著者の怒涛の攻撃が終わりまで続く。第2章は進化生物学と絡めて皮膚を語り、第3章、第4章ではバリア機能としての皮膚を語る。かと思えば、第5章では感覚器としての皮膚を語り、第6章では皮膚から他の身体器官へ働きかけを論じ、第7章では皮膚による自己の立ち上がりを解く。第8章は皮膚ペインティングを足がかりとして自己の表象としての皮膚を語る。ここら辺は以前に書いた『さまよえる自己』に通じるところがあるなあ、と思う。一緒に読むのも手かもしれない。

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 そして最後は数学だ。非線形数学と皮膚科学の邂逅。皮膚における化学現象のシミュレーションにまで著者の研究は進んでいることを知らされる。「知識の万華鏡や~」と叫びたくなること請け合いである。

 

 出典も明確にされているところが心にくい。「evidence based」興隆の時代において、ちゃんと読者が原典を参照できるよう細かい気遣いがなされている。地にひれ伏し、神として崇めたくなるレベルだ。皮膚科学の最新知見が最高密度に凝縮して提示されている。本書だけで論文を数十本読んだのと同じか、それ以上の効果があるだろう。

 

 数年前の本である。ということは今現在その知見は蓄積され、さらなる驚くべき皮膚の秘密が発見されているかもしれない。最新作が待ち遠しい。著者は、もとは物理化学が専門だという。その境遇がまた僕と似ているから(こんな恐れ多いこと言ってすみません)、個人的には余計に親近感が湧く。物理化学と皮膚に何の関係が? などと問うのは愚かというものか。本書は勉強が決して無駄にならないことの実例としても読める。

 

 ところで、冒頭の問いの答えはなんだろう。ちなみに著者の考える解答は本書の最後に提示されている。その解答を予想するもよし、自分なりの解答をひねり出すのもよし。ぜひ考えてみてください。あなたの解答が未来の皮膚科学を切り開くかもしれません。