安楽椅子のモノローグ

完全なる頭でっかちを目指す

私の癒し―癒しとは詩である 『谷川俊太郎詩集』

今週のお題「私の癒やし」

 どうしようもなく(身とか心が)くたくたになっているときは、できるだけ何も考えないようにしている。近頃は、ずいぶんと寒くなってきたので、暖かいものが飲みたくなる。そんなに濃くないコーヒーとか、ホットジンジャーとか、ブランデーをちょっと垂らした紅茶とか。そんな飲み物をゆっくりと用意して、出来たての香りを嗅いで、そっと口に含む。身体が暖かくなる。

 

 ふっくらとしたソファに(このときばかりは安楽椅子ではない)座って、目を閉じる。今日も色んなことがあった。だけど、考えるのは今じゃなくていい。何も考えないで(それは言うほど簡単なことじゃない)、頭をからっぽにしてしまおう。好きな音楽をかけておくのもいい。もちろん、シンと静まりかえった静寂の中に身を置いてたって構わない。それから、ゆっくりと本を開く。疲れたときに読む本はいつだって決まっているのだ。

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 谷川俊太郎の詩には、すべてが詰まっている。この世の真理を知りたければ、みんな彼の詩集を読めばいいのに。哲学者とか、科学者とか、小難しいことばっか言ってる人たちはみんな谷川俊太郎のことを知らないんじゃないかと思う。「あなたたちの知りたがってることは、みんなここに載ってますよ」と言ってやりたい(きっと彼らは聞く耳をもたないだろうけれど)。

 

 谷川俊太郎の詩には、孤独がある。不思議だけれど、僕は孤独によって癒されることがある。谷川俊太郎の詩には、悲しさがある。なぜだか知らないけれど、僕は精一杯悲しくなりたいときがある。谷川俊太郎の詩には、怒りがある。僕があいつに言ってやりたい言葉が、何て的確に書かれてるんだろう。谷川俊太郎の詩には、笑いがある。こんな短い詩の中に腹を抱えてしまうほどの笑いが詰まっている。谷川俊太郎の詩には、愛がある。愛は、この世で一番大切なものだろう? 谷川俊太郎の詩には、意味がない。きっとすべての詩には意味なんて無いのかも知れない。意味に疲れたときには、そんな詩がとても心地よい。

 

 谷川俊太郎の詩を読んでいると、言葉には色とか香りがあるんだなということに気づかされる。でもよく考えると当たり前だよな、と思う。だって僕らは毎日言葉に傷ついて、言葉で傷つけて、言葉に倦んで、言葉を無くして家に帰ってくるじゃないか。ぜんぶ言葉なんだよ。

 

 でも癒すのも言葉なんだ。だから、僕は谷川俊太郎の詩集を開く。ここには、僕を傷つける言葉はひとつもない。ゆっくりとページをめくる。言葉が僕の中にゆっくりと入ってくる。僕はゆっくりと言葉を取り戻す。

 

 谷川俊太郎の詩には、すべてが詰まっている。谷川俊太郎の詩は、僕がどんな気分のときにだって、僕の気分にぴったりあった言葉を用意してくれる。その詩は、僕に「僕が僕であっていい」ってことを教えてくれる。

 

僕の(そして谷川俊太郎ファンの誰もが)好きな詩をひとつ引用する。

 

生きる

生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
あなたと手をつなぐこと

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまが過ぎていくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ

 

癒しとは、谷川俊太郎詩集の謂である。

噂―作品に隠されたもうひとつの仕掛け

噂 (新潮文庫)

噂 (新潮文庫)

 

  【あらすじ】
 「レインマンが出没して、女のコの足首を切っちゃうんだ。でもね、ミリエルをつけてると狙われないんだって」。香水の新ブランドを売り出すため、渋谷でモニターの女子高生がスカウトされた。口コミを利用し、噂を広めるのが狙いだった。販売戦略どおり、噂は都市伝説化し、香水は大ヒットするが、やがて噂は現実となり、足首のない少女の遺体が発見された。衝撃の結末を迎えるサイコ・サスペンス。

 

 萩原浩『噂』はミステリ史上、最高傑作のサイコ・サスペンスのひとつである。

 

 新製品の香水を売るために、企画会社によって渋谷の女子高生の間に噂が流される。香水をつけていると3か月以内に恋愛が成就する。ニューヨークには「レインマン」という殺人鬼がいて、女子高生を殺しなぜか足首を切り落とす。「レインマン」は日本にも出没するらしいが、香水をつけていると襲われない。こういった、いかにもありがちな噂が、女子高生の口コミでどんどん広まっていく。しかし、「レインマン」の噂は、ある日現実の事件となり…。

 

 こういった販売戦略が実際にあるかどうかは、僕は知らないが、きっとあるのだろう。作者の荻原浩が、広告代理店勤務経験者ということを考えれば、萩原の体験をもとにしたものなのかもしれない。確かに、都市伝説の伝播力の強さ、女子高生の情報網の広さなどを考えると、こういった戦略は現実のものとしてあっても何らおかしくはない、と思わせる。僕は、都市伝説が実際に起こるという作品を見ると、必ず読みたくなる。怪談、ホラー、都市伝説、陰謀論は大好物なのだ。

 

 殺人鬼「レインマン」を追い詰める刑事は二人いる。くたびれてドロップアウト気味のベテラン刑事・小暮と本庁強行斑係の美人女刑事・名島のコンビである。上司の方が若く、部下の方が年寄というのは現実的にありそうだ。小暮はとまどいながらも、名島の才能を見抜きサポートしていく。
 二人には、どこかしら似通った境遇がある。小暮はシングルファーザー、名島はシングルマザーである。小暮は女子高生の娘・菜摘を男手ひとつで育てるために捜査一課を退いた経歴がある。小暮と菜摘のやり取りが作中ではよく出てくるが、懸命に生きる家族の姿が絶妙に描き出されていて、よい。
 一方の名島は、若くして警部補に昇進しているが、これにはいろいろなわけがある。名島には五歳の男の子がおり、やはりたくましく二人で生きている。
 小暮と名島、この名コンビが捜査以外で親交を深めていく様子も見物だ。人物の細かなディテールまで手を抜くことなく描写しており、人物像がくっきりと浮かび上がってくる。

 

 企画会社コムサイトの美貌の女社長・杖村沙耶とナンバー2である麻生。コムサイト社に翻弄される広告代理店の加藤と西崎。その他、キャラの立った登場人物が色々と出てくる。ストーリー展開は、警察、「レインマン」、コムサイト関係者とそれぞれの視点が移り変わりながら進んでいくというオーソドックスな展開だが、最初から最後まで息をつかせぬストーリーで読者はあっという間に読了してしまうだろう。

 

 ・・・閑話休題

 

 だが、しかしだ。『噂』は単なるシリアル・サイコ・キラーを追い詰めるだけの小説ではない。実は作者は、非常に巧妙にもう一つの仕掛けを用意している。この仕掛けはあまりに巧妙すぎて、さらっと読んでしまうと見逃す可能性が高い。読者の方々は、この仕掛けに気づくことができる(できた)だろうか? 僕は最初読んだとき、しばらく気づくことができなかった。でも、どうしても気になる台詞がひとつあって、それを読み返してみて初めてぞっとしたのだった。まさに、世界が反転する、あの感覚である。自分の中の心象が一瞬にして様変わりする体験。優れた書き手だけが読者にもたらすことのできる衝撃。それが最後の最後に訪れる。そのとき、『噂』が、こんなにも恐ろしい小説だったということを初めて知らされるのである。そしてもう一度読み返してみると、それまでとは全く違う風景が現前する仕掛けとなっている。読者は、そう、裏切りにも似た気持ちを味わうだろう。

 

 もっと話題になってもよかった小説である。恐らくは、仕掛けの巧妙さがそれを困難にしてしまった。自分が騙されていることに、最後まで気づかない小説なのだ。親切な他人からタネを明かされてようやく気づくこととなる。荻原浩の上手さが、上手すぎて、読む者が心底騙されてしまうのである。そのあたりが、幸か不幸か、なかなか評価しづらい作品でもある。

 

 僕は、とても親切な人間なので、読者にはひとつ忠告しておく。登場人物の台詞をひとつたりとも読み逃してはならない。でないと、この小説の真髄を味わわないままに終わってしまうだろう。万が一、気づかずとも十分な読後感を得られる作品なので、気づかないからといって問題はない。いや、むしろ知らぬが仏なのかもしれない。が、怖いものをぜひ見てみたいという方は、穴があくまで紙面を見て、登場人物の台詞を細大漏らさず心にとどめておくのがいいと思う。

 

 最後に、作品に出てくるJKの会話に触発されて僕もJKの会話を考えてみた。

 

「え、なに? 好きピからLINE?」

「うん? 違え。弟から。あ、そういや、こいつあんたに気があるらしいよ」

「マ!?」

「マ。めっちゃタイプらしい」

「うっそおー。 ゲロはげる」

「どうよ?」

「うーん。ありよりのなしかな」

「ありよりのなしかよ。あ、そういやあのダークマター

「あ、うちの隣の席のデブのこと?」

「あいつ授業中あんたのことずっと見てたよ」

「マ!?」

「マ、マ、マ」

「きもさぶ」

 

僕には文才がないですね。残念!

ヘウレーカ!!

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 『又吉直樹のヘウレーカ』は、人生に効く数学の話を聞かせてもらうとコーヒー代はタダ、という風変わりなカフェを舞台に、又吉直樹が若手数学者に話を聞かせてもらう、なかなか趣向を凝らしたTV番組である。九州大学マス・フォア・インダストリ研究所の千葉逸人先生と京都大学白眉センター数理解析研究所助教鈴木咲衣先生が、若手数学者代表として出演されておられたので、これは見逃すまいと録画視聴した。お二人の経歴は次のようである。(それぞれ各大学の自己紹介より引用)

 

千葉逸人先生のプロフィール
専門は力学系理論です。特に解の定性的な挙動を調べるための分岐理論やカオスに興味があり、その対象は低次元力学系から無限次元力学系にまで至ります。近年、物理・工学や生物において結合振動子系(大多数のモノたちが互いに相互作用することで多様な振舞いを見せる系)の研究が盛んになってきており、そこでも大自由度力学系(無限次元力学系)の理論は大活躍されると期待されます。しかし数学的にはまだまだ未開拓であり、極めて豊富な話題を提供してくれます。特に最近は、無限次元力学系において、連続スペクトルがダイナミクスに与える影響の関数解析的な手法による研究や、ネットワーク上の力学系においてグラフのトポロジーダイナミクスに与える影響の研究に興味を持っています。このような数学として困難な力学系の研究は、物理や工学のほうが進んでいることも多く、応用も豊富です。このように他分野とも交流を持ち、応用まで見据えた基礎的な数学の研究を行っています。

 

鈴木咲衣先生のプロフィール
幾何学の中でも結び目理論を専門にしています。その名の通り、「結ばったひも」の構造を数学的に研究する分野です。近年、結び目理論は表現論や数理物理など様々な分野と関連しながら急速に発展しています。私も分野が交錯する場所でもみくちゃにされながら研究をしています。数学をしていると安心します。数学は自由で、どこにいても、何がなくてもできます。孤独?と聞かれることもありますが、そんなことはありません。学問を介すれば、時代や場所を超えて世界中の人とコミュニケーションを取ることができます。もがきあがいた末に大切なのは、素直な感性。心惹かれる物に正直に、きれいなものを見てきれいと思い、大切だと思うものを大切にしたい。白眉プロジェクトでもそんな感性を大切にしながら、日々数学と向き合っていきたいと思っています。

 

 鈴木先生は、今は京都大学におられるが、直前は九州大学におられた。お二人とも九州大学つながりということで、抜擢されたのであろう。僕は数学については、昔から憧れを持っている。自分がたいして数学ができない分、数学が天才的にできる人を見ると称賛の眼差しで見てしまうのだ。特に、昨今の若手数学者(数学者には限らないが)の方々は、僕のような一般大衆に寄り添うようなお話をしてくれる方が多く、聞いていてとても心地が良い。数学の面白さを真剣に伝えようとする、純粋な熱情が真直ぐに伝わってくる。若者の「理系離れ」を解消するために、近頃では、若手たちが色んな場所に駆り出されて中高生相手に話をしているが、僕も若いころにこんな人たちの話を聞いていたら、できないなりに、数学の道を志してもいいかな、という気になっただろう。

 

 お二人に共通するのは、分野の交錯点における数学を専門としておられることだ。数学が、その応用としての本領を発揮する物理や工学と積極的に接点をもちながら奮闘しておられる。数学というと、どうしても抽象的だとか、公理主義的だとかいう何だかお堅いイメージがつきまとうものだが、決してそれだけではない、ということをお二人は番組の中でも教えてくれていた(もちろん、原理から考えることの大事さを強調されてもいたが)。

 

 数学って、世の中の何の役に立つのか(『先に生まれただけの僕』で出る質問だなあ)という質問はよくあるが、犀川先生ばりに「役に立たないから人間的なんだよ」と言い切ってしまうのもかっこいい。でも、「ちゃんと役に立ってるよ」と説明することも大事だと思う。数学やってても食えないよ、という声も聞く。確かにそういう時代もあったのかもしれないが、それは時流に無知な人の妄言に過ぎないだろう。世の中の役に立たない数学などない、というのが昨今の数学事情である。応用数学なしに現代文明など成り立たないだろうから。数学でも十分に飯は食えるはずだ。

 

 実は、この番組を観て、久しぶりに昔ハマッてたカオス理論の本でも読みたいな、と思ったのである。昨日のレビューはこちら。

 カオス理論だけではない、いまや、続々と「新しい科学」は誕生しているのだ。今この瞬間にも。

カオス―科学界の異端理論

カオス―新しい科学をつくる (新潮文庫)

カオス―新しい科学をつくる (新潮文庫)

 

  キューブラー・ロスはその著書『死ぬ瞬間』の中で、死の受容の5段階について述べている。突然、死を宣告された人間は、もちろん個人差はあるものの、おおよそ、否認→怒り→取引→抑うつ→受容の5つのプロセスを経て自らの死を受け入れるという。

 

 カオス理論が、当時の科学界に突きつけたのは「死亡宣告」であった。それは物理学にとっては、決定論に対する死の宣告であり、数学界にとっては公理主義に対する死の宣告であり、科学界全体にとっては線形科学に対する死の宣告であった。この表現はいささか大げさに聞こえるかもしれない。しかし、当時の科学界がカオス理論に対して抱いた感情は、まさに死亡宣告を言い渡されたに等しい感情であったのは間違いないだろう。カオス理論が科学界に浸透するためには、キューブラー・ロスの死の受容の5プロセスを経ねばならなかったのである。それは端的に言って、パラダイムシフトが起こったということに他ならない。

 

 新しい科学は歴史と共に語られなければならない。なぜならそれは、それが必然的に産み出されなければならなかった時代背景を持っているからである。ニュートン力学にはニュートン力学の時代背景があり、量子力学には量子力学の時代背景がある。本書は、すでに古典の部類に属するものであるが、カオス理論黎明期の時代背景が克明に描写されており、他の類書とは一線を画すほど詳細なエピソードがつづられている。理論についても手を抜くことなく、しかし、専門的になることは避けながら、できる限りの範囲でカオス理論のおもしろさを伝えようという意気込みが感じられる。

 

 本書を読んで思うのは、カオス理論はその歴史すらもchaoticであるということだ。ローレンツの「バタフライ効果」に始まり、スメールの馬蹄型写像、離散型ロジスティック方程式、リーとヨークのあまりにも有名な「周期3はカオスを意味する」、フラクタルの象徴ともなったマンデルブロ集合、リュエルのストレンジ・アトラクタ、ファイゲンバウム定数、リブシャベールの実験、マイケル・バーンズレーのカオス・ゲーム、ロバート・ショウの水滴系のカオスなどなど。ちなみに、物理現象におけるカオスを世界で初めて発見したのが上田睆亮であることは蛇足か。

 

 これらを見るだけでもchaoticである。気象学から物理、数学、情報理論にいたるまであらゆる分野を巻き込んでカオス理論が発展してきたことがわかる。それまで目を背けられていたことを糾弾するかのような勢いで、カオス理論は自らの存在を主張し始めたようにも見える。それは、まさに蝶の羽ばたきのように、ある種のノイズとして科学者の目に留まり、いつのまにか、もう後戻りできないくらいまでに科学界に大嵐を巻き起こしたのだ。カオス理論はその誕生そのものがchaoticである。

 

 それは医学をも巻き込んだ。分裂病者の眼の動き、心臓のリズム、血管網や神経網など身体のいたるところにカオスが出現していることがわかっている。僕は恥ずかしいことにこれらの研究には無知であるが、どうやら医学界もカオスの渦と無関係ではいられないようだ。残念ながら、僕の身近にカオスを医学に応用した研究を行っている人はいないが、いつかぜひ会ってみたい。

 

 本書は、古典である。現在の研究はさらに進んでいるだろう。このような分野横断的学問はなかなか浸透しにくい傾向にあるが、いま、現在カオス理論はどの程度までその領野を拡大しているのだろう。物理学からはあまりにも数学的すぎるとされ、数学からはあまりにも物理学的すぎるとされ、常に異端児とみなされて続けてきた「新しい科学」の行く末を、見守っていく価値はある、と僕は思う。

 

 実はこの本を読んだのには、最近観たあるテレビ番組が関係しているのだが、それはまた、次回に語ることとする。

僕だけがいない街―18年と15分

僕だけがいない街 (1) (カドカワコミックス・エース)
【あらすじ】
 毎日を懊悩して暮らす青年漫画家の藤沼。ただ彼には、彼にしか起きない特別な症状を持ち合わせていた。それは…時間が巻き戻るということ! この現象、藤沼にもたらすものは輝く未来? それとも…。

  三部けいが本作『僕だけがいない街』によって、歴史的漫画家となったことは間違いない。荒木飛呂彦の帯が話題を呼んだことは全く関係ない。ひとえに作者の力量によってである。久しぶりに手に汗握る漫画、ページをめくる手が止まらない漫画というのを読んだ。

 

 エンタテインメントにおける「タイムリープもの」の名作は、数々ある。因習や風習といった民俗学的意匠とホラーそして美少女ノベルゲームとを見事に融合させた『ひぐらしのなく頃に』、ネット世界の都市伝説や陰謀論などをふんだんに用いて独特の世界観を築いた『STEINS;GATE』、作画とまさかの鬱展開で視聴者の度肝をぬき、魔法少女のイメージを一新した『魔法少女まどか☆マギカ』。そのすべてを僕は観てきた。作品を観るたびに「タイムリープもので、これを超えるものはもうでないんじゃないか」という思いが頭をよぎる。しかし、その予想は常に裏切られ続けてきた。そしてまた、僕の悲観的予想を裏切る作品がひとつ増えた。

 

 雛形加代の死が、主人公・藤沼悟を過去につなぎとめている。彼を悩ませる「再上映(リバイバル)」の能力は主人公のそのトラウマと関係しているのであろうことは容易に推察がつく。母が突然何者かに殺害される。容疑者として追われる悟。そして起こる空前の再上映(リバイバル)。悟は小学生に戻ってしまうのだった。

 

 小学生までタイムリープしてしまうという設定に驚かされる。それが悟の行動を制約する。その中で、悟がどうやって加代を救うのか。そして、どうやって母の殺害されない未来にたどり着くのか。何より真犯人は誰か(これは意外とすぐにわかってしまうだろうが)。「再上映(リバイバル)」は、しかし、成功するとは限らない。真犯人は狡猾であり、悟の思考のはるか先をいく。未来を変えることは容易ではないのだ。

 

 どんどんページをめくる。忠告しておくが、必ず全巻揃えてから読まねばならない。全ての巻が、最もいいところで終わってしまうように計算されている。次の巻がなければモヤモヤした気持ちのまま取り残されるだろう。どうせ眠ることはできない。

 

 圧巻なのは、真犯人がわかった後だ。ここからの怒涛の展開は誰も予想できないだろう。真犯人を、どうやって悟は追い詰めるのか。真犯人の頭の良さには心底脱帽させられる。こんなにかっこいい悪役を見るのも久しぶりだった。あっぱれなのである。ここだけの話、僕はちょっと真犯人を応援したくもなった。なにせ彼の境遇ときたら…。いや、とにかくすべて読んでもらったらわかる。

 

…には15分のアドバンテージ。僕には18年のアドバンテージでやっと五分だよ。

 

もうこの台詞が。何とも心に残る。感動とかそう言う意味ではなくて、この台詞が真犯人がいかに強敵であったかを端的に物語っているのだ。

 

世界線がずれるのも憎らしい設定だ。

 

一緒に 雪宿りしてもいいですか?

 

いいよー!いいに決まってんだろ! 泣ける。

 

タイトルの意味も最後にわかる。とにかく読んでください。大傑作ですから。 

メフィスト賞の軌跡―その3 蘇部健一

六枚のとんかつ 改訂新版 (講談社ノベルス)

六枚のとんかつ 改訂新版 (講談社ノベルス)

 

  京極夏彦森博嗣清涼院流水ときて、蘇部健一の登場である。今思えばすごい顔ぶれだ。これほど多彩な個性が初期に生み出されていたとは。ちなみに、この後、乾くるみ浦賀和宏と続いていくのだから、メフィスト賞恐るべしである。時は1996~1998年であり、世の中が世紀末の色合いを帯びていた時期である。世紀末なんてとんでもない、ミステリは世紀末どころか、まさに新たな始まりを告げていたのだ。

 

 『六枚のとんかつ』は連作短編集である。蘇部以前のメフィスト作家たち(といってもまだ3人しかいなかったが)が、長い話(清涼院流水にいたっては長いどころではない)をじっくりと読ませるタイプであったのと比べて蘇部のは、ひとつひとつの話がとても短くて読みやすい。『コズミック』を読んだ後に、これを読むと心が穏やかになる。登場人物も数えるほどしか出てこないし、万が一、何らかの事情で読書を中断せざるを得なくなったとしても、再び読み返すときに全く困ることはない。読者に優しいミステリ小説である。

 

 本作品には、保険調査員である小野由一(おのよしかず)が遭遇した、保険金にまつわる難事件・怪事件の数々をひとつにまとめたという体裁で15の掌編が収められている。バカミスやらアホミスやら言われているけれども、実にその通り。露骨なまでに馬鹿げた事件と推理の押収に読む者は、苦笑に次ぐ苦笑の連続である。だがしかし、トリックまで馬鹿げているかというとそんなことはなく、妙に納得させられるのが、やはりメフィスト賞受賞作だなあ、と感じる。「えっ、そりゃあないよ」と一瞬思うのだが、よく考えると「いや、やっぱ、ありだわ」となるのである。

 

 僕は、藤原宰太郎の『名探偵に挑戦』などの一連の推理クイズ本が好きで、子どもの頃よく読んでいたが、テイストとしてはそれと似たところがある。思わず童心に戻って謎解きをしたくなるのだ。この読者に寄り添う感じが何ともよいのである。蘇部以前のメフィスト賞作家は、(いい意味で)読者を突き放す感があった。高度なintelligenceで読むものを圧倒する、それがメフィスト賞だ、という感じだったが、蘇部はまったく違う。ミステリ小説って読んで、解くものだよね、という至極当然だが、僕らが忘れかけていたあの素朴な気持ちを思い出させてくれる。

 

 

  短編のいくつかは、往年の名作のオマージュとして書かれたものもあり、蘇部健一自身もかなりのミステリ好きであることが伺える。表題作「六枚のとんかつ」なんかはもろにそうで、禁じ手ともいわれかねない、トリックの模倣している。しかし、原作のトリックが実に見事にアレンジされていて、「おお、なるほど! すごい応用力!」と感心させられた。こういうのは非常に数学的で僕は好きだった。自分の覚えた解法を、一見するとまったく違うように見える問題に応用して、解けたときの喜びと通じるものがある。

 

 どうせ一発屋だろ!と思うなかれ。『六枚のとんかつ』シリーズ以外にも、青い鳥文庫からは今でいうところの日常系ミステリである『ふつうの学校』シリーズ、また同じ講談社ノベルスから『届かぬ想い』といったSF作品を出しており、幅広い書き方のできる器用な作家である。だからだろう、コアなファンも多い。例えば、蘇部健一応援ページでは、全作品が簡潔に紹介されていて、とてもタメになる。ぜひ一読されたい。

 

 バカミスとかアホミスとか、果てはゴミとかさんざん言われもしているが、早坂吝『○○○○○○○○殺人事件』や柾木政宗『NO推理、NO探偵?』などは確実に蘇部の系譜の延長線上にある作家たちである。蘇部健一の魂は確実に世代を超えて受け継がれている。

 

 ちなみに第2回はこちら。

人工知能は人間を超えるか―現代人の必携書

  人工知能(Artificial Intelligence:以下AI)は、1956年に誕生した。そこから現在までに3度のAIブームがあったと言われている。1度目は1960年代、2度目は1980年代、そして今、僕らは3度目のブームの真っただ中にいる。このブームは今までで最も長く続いているし、今後も続くだろう。いまやAIという言葉を目にしない日があるかというほど、世の中にはAIという言葉が氾濫している。AIは時として希望の言葉であり、時として悪魔の代名詞であったりする。つまり、AIについて、正確に理解できている人間はごくわずかというわけだ。

 

 そんな現状にあって、AIを正確に理解できている人間の一人が、松尾豊である。本書はAIの過去、現在、未来について記された大変興味深い書物である。著者のスタンスもよい。

 

 上限値と期待値とを分けて理解してほしいのである。宝くじを買っただけで、1等が当たる気になってしまうのは、人間であればしかたない。でも、1等が当たることは、実際にはめったにない。
 人工知能は、急速に発展するかもしれないが、そうならないかもしれない。少なくとも、いまの人工知能は、実力より期待感の方がはるかに大きくなっている。
 読者のみなさんには、それを正しく理解してもらいたい。その上で、人工知能の未来に賭けてほしいのだ。人工知能技術の発展を応援してほしい。現在の人工知能は、この「大きな飛躍の可能性」に賭けてもいいような段階だ。買う価値のある宝くじだと思う。

 

 AI研究の第1人者のリアルな本音がここには吐露されていると思う。僕らは技術について語るとき、上限値と期待値をしばしば混同して議論してしまうが、そこを明確に区別しない限り、その議論が正鵠を射ることはない。今現在、AIに何ができて何ができないか、そのことをきちんと理解しておかないと、議論は空想の域を決して出ないであろう。日々の報道に混じる「すでに実現したこと」、「もうすぐ実現しそうなこと」、「実現しそうもないこと」を僕らは選り分けねばならない。

 

 本書はAIについて、実に冷静な視点から、虚実をしっかりと判別し、的確な解説を行った良書である。もちろん、著者は専門がAIなのだから、AIに期待していないはずがない。ともすれば、研究者は、自分の研究の面白いところだけを抽出し、研究のポジティブな側面ばかりを強調して語るような、自己満足的語りに陥ってしまいがちであるが、本書ではそのようなことはない。正の側面と負の側面がきっちりと書かれている。著者の立場が徹底的にフェアなのである。だが、行間からはAIに対する著者の熱い思いがにじみ出ている。良いところも悪いところもすべて明かして見せて、それでも、どうかAIに期待して欲しいという著者の「AI・愛」が伝わってくるのだ。

 

 AIに関して、歴史に始まり、原理についても、さらにはそれがビジネスに与える影響まで、詳しく書かれている。現代人の必携書とは、まさに本書のことである。今話題のディープラーニングについては、特に紙面を割いて解説がなされており、著者の期待感が伝わってくるようだ。

 

 ところで、卑近な例だが、最近次のようなニュースを見かけた。読んだことのある方もおられるだろう。

 

 

 画像診断は、いままさにAIによって影響を受けつつある分野である。病理医を主人公にした漫画&ドラマ『フラジャイル』の普及で、病理医不足についてある程度認知されてはきているものの、現実問題として、病理医不足が解消されるのはまだ先のことである。そこで、AIを導入しようという動きが出てくることは当然の動きといえよう。病理診断だけでなく、放射線科の行う画像診断などもAIのターゲットとなる分野である。こういう記事を見ると、AIが人にとって代わることの不安ばかりが先走りすることとなるが、そういう負の側面だけを声高に議論するのではなく、まずはAIの恩恵によって、どれだけ社会的な効果があるかという正の側面の評価を慎重に行うことの方がよっぽど重要だと感じる。

 

 もちろん、職業的に影響を受ける分野は少なからずあるだろう。大事なのは、共存であって「人vs AI」ということでは決してないということだ。ただ、AIの台頭は今後の世代の職業選択には大きな影響を与えるだろう。若い世代こそ、早くからAIの知識をもっておかねばならない、と僕は思う。そういう面でも本書は有用である。高校生や大学生にぜひ読んでいただきたい。

 

 ところで、今流行りの「シンギュラリティ」についてはどうだろうか。蛇足だが、一応説明しておくと、「シンギュラリティ」とは技術的特異点とも呼ばれるもので、人工知能が自分の能力を超える人工知能を自ら生み出せるようになる時点のことを言う。もうすぐこのようなことが実現するという予測があるのだ。これについては、実に簡潔な文章が本書に記されている。

 

いまだかつて、人類が新たな生命をつくったことがあるだろうか。仮に生命をつくることができるとして、それが人類よりも優れた知能を持っている必然性がどこにあるのだろうか。

 

きっと、「シンギュラリティ」は遠い。だが、人工知能の可能性は、それとは別の場所にある。そのことが本書を読むと実によくわかる。