安楽椅子のモノローグ

完全なる頭でっかちを目指す

心臓の力―知っているようで知らない心臓

 生命はリズムを刻む。リズムを刻むことこそ、生きている証なのかもしれない。例えば、消化管の蠕動運動。調和のとれたリズムで運動が行われるからこそ、僕らは食物やその残渣を口から肛門まで送り届けることができる。例えば、ホルモン分泌。その律動的な分泌によって、僕らの生にリズムが刻まれ、逆説的だが、体内の恒常性が保たれることとなる。例えば、心臓の拍動。生命の誕生から死までの間、その臓器は一定のリズムで全身に血液を送り続ける。僕らの発生にとって最もcriticalな臓器は、脳だと思われがちであるが、心臓の方がよりcriticalである。無脳児というのは有り得ても、無心児というのは有り得ない。心臓が発生しなければ、ヒトはヒトになることさえできないのだ。

 

 心臓に関する研究には、これまでにも相当な人材と才能が費やされてきたし、驚くべき発見がなされてもきた。にもかかわらず、心臓は我々にとって、未知で有り続けているともいえる。『心臓の力』を読むと、そのことを痛感する。ここには、我々が今まで考えもしなかったような発見が記されている。(いつも言っているが)これほど重大な発見を、一般書として読むことのできる国に生まれたことに僕は、いくら感謝しても感謝しきれるものではない。

 

 自律神経というものを読者は知っておられることと思う。それは運動神経や感覚神経といった我々が意識できる神経(こういった神経を体性神経と呼ぶ)と違い、意識することはできない。自律神経は我々の意識にのぼることはない。だが、それは、絶え間なく臓器に働きかけ、呼吸、循環、体温など(いわゆるバイタルサイン)を調節し、体内環境を一定に保つ働きをしている。

 

 自律神経には、交感神経と副交感神経の二種類が存在する。有り体にいえば、交感神経は興奮状態に関係し、副交感神経は安静状態に関係する(正確にはこの限りではないが)といえる。ほとんどの臓器には、この2つの神経が分布していて、臓器のアクセルとブレーキを調節している。心臓ももちろん例外ではなく(当たり前だが、最もアクセルとブレーキの調節が必要な器官だから)、交感神経と副交感神経が分布しているが、これまで謎だったのは、この分布に極端な偏りがあるという事実だった。心臓では交感神経が、副交感神経に比べて圧倒的に多い。つまり、心臓はいつもアクセルをかけられながら動いているということだが、なのに、なぜ心臓は過労死することがないのか。

 

 

 

 柿沼由彦は、その謎の解明者である。彼が解明したのは、心臓に関する驚くべき事実だが、実はそれだけにとどまらない。彼の発見したNNCCS(a non-neuronal cardiac cholinergic system)は、生体全体に対する我々の見方を刷新する(すでに刷新した)驚くべきシステムである。これは、心臓が、副交感神経系に匹敵するほどのアセチルコリン産生臓器であるということを発見したものであり、有史からの心臓についての常識を大きく覆すものであった。

 

 ちなみにアセチルコリンというのは、副交感神経から分泌される神経伝達物質であり、交感神経末端から分泌されるノルアドレナリンという物質に拮抗する働きをもっている。そうして、アクセルがかかり過ぎないように我々の人体は絶妙に調節されている。

 

 心臓に副交感神経が少ないのは、これまでは、心臓においてはアクセルをかけることの方がより重要だからだと思われてきたが、柿沼のこの発見により、そうではないことがわかった。心臓は自らがアセチルコリン産生器官であるために、副交感神経をそれほど必要としなかったのである。実は、神経をもたないような原始的単細胞生物アセチルコリンを産生することが知られている。アセチルコリンは進化の大昔から生命にかかわり続けてきた物質なのであり、その分泌を神経が担うようになったのは、ごく最近のことに過ぎない。だったら別に、心筋細胞がアセチルコリンを分泌するなんて、驚くにあたらないと思われるかもしれないが、推論することと事実を突き止めることの間には、天と地ほどの差があるのだ。特に生命科学においては、どんな大胆な推論だって言おうと思えば幾らでも言える。だが、それが真であると証明するのには、莫大な労力(と資金)、そして何よりもそれを実現する英知が必要となる。柿沼はそれをやってのけたのだ。

 

 驚くのはそれだけではない。柿沼の発見以降、アセチルコリンは心筋細胞以外の細胞も産生・分泌しているという報告が続いている。柿沼の「NNCCS」は、今ではさらにそれを包括する概念である「NNA(a non-neuronal ACh)」として、世界中で研究が進められるようになっている。

 

 「副」交感神経という、微妙なネーミングのせいで、これまでそれほどスポットライトが当ててこられなかったアセチルコリンは、今や、主役の座に躍り出たといっても過言ではない。このことは、生体においては、アクセルよりもブレーキをかけることの方が、より重要だということを意味してはいないだろうか。

 

 アクセルよりブレーキをという考え方は、心臓の分野では特に顕著で、その昔、心不全治療と言えば、心臓を無理やり働かせる「強心薬」による治療が主流であったが、現在では、逆に心臓のはたらきを抑える「β遮断薬」による治療が主流である。心臓のポンプ機能が弱まっているなら、人工的に強めてやろう、というのはごく自然な考えである。だから、昔は「強心薬」でがんがん心臓を動かした。それが正しいとみんな信じていた時代があった。ところが、臨床研究の結果は、その考えが誤りであることを証明した。「強心薬」は、心不全患者の予後を延ばすどころか、縮めるという結果となったのである。さらに、びっくりしたのは、むしろ心臓の働きを抑えてやった方が、予後が改善することがわかったことだ。その後、心不全治療はそれまでとは真逆の方向へ進んでいった。そして、現代はまさに「β遮断薬」全盛期の時代である。だが、これは柿沼のNNCCSとは全く関係ない。

 

 今後はさらに、アセチルコリンに焦点をあてた治療方法が確立されていくだろう。柿沼らは、新しい治療法の可能性をすでに提唱しているので、ぜひ本書を読んでいただき、その斬新な治療法の端緒の目撃者となっていただきたい。

 

 僕は、心臓が好きなので、今日はいささか長い記事になってしまった。が、最後にもうひとつ。つい最近、『Cell』という、トップジャーナル(山中伸弥のiPS細胞が発表されたのもこの雑誌だ)に、心臓には心臓に特有のマクロファージ(免疫細胞の一種)がいて、それが実は心臓のリズムを調節しているという論文が発表された。今度は免疫かよ! と僕の胸は高鳴っている。 

http://www.cell.com/cell/fulltext/S0092-8674(17)30412-9

 

  心臓の新しい世紀が始まってきた予感がする。

 

 以前、皮膚についても記事を書いたので、よかったら読んでみてください。

夏への扉―僕らはみんな夏への扉を探している

 

 必読である。この作品を読まずに死ぬのはもったいない。

 

 どこがすごいか、言ってみよう。まず、タイトルが秀逸である。次に、ストーリーがおもしろい。その上、読後感も最高だ。こんな3拍子揃った小説がハズレなわけがない。
 何だ、そのあまりに普通の褒め方は、と思われる向きもあろうが、たったこれだけでいいのである。嘘も大げさも紛らわしさもいらない。『夏への扉』について、賛辞の言葉を述べるのには、何の脚色も要しないのだ。

 

「どうせ嘘っぱちだろう」と思って、1ページめくるだけでよいから、どうぞやってみてください。気づいた時にはもう読み終わっています。

 

 かわいそうなおじさんと猫の話である。しかし、この小説には妙な若々しさがある、と感じた。読み進むにつれ、そんな気持ちがどんどん大きくなっていく。確かにおじさんと猫だよ…な。でもなんか、少年が精いっぱい人生に奮闘して、もがいて、生き抜いていく様が描かれているような、爽やかな青春小説を読んでいるような気分がしてくるのだ。初めて日本で翻訳が出たのが、1958年という。それ以来、長きにわたりオール・タイム・ベスト上位ランカーの座を譲らないのも頷ける(以前、記事を書いた『ソラリス』は、しかし、『夏への扉』を凌駕する人気を誇るようだが、僕自身は甲乙つけがたいと思う)。

 

 「冷凍睡眠(コールド・スリープ)」が実用化された近未来を描いたSF小説であることは言うまでもないが、この作品にはその他、「タイム・トラベル」も出てくる。そして、本作は、この「タイム・トラベル」を利用した上質なエンタテインメント小説としても読むことができる。さらには、何ともあっぱれな勧善懲悪を描いた痛快な冒険活劇として読むこともでき、はては、この上ない究極の恋愛小説として堪能することもできるのだ。もちろん、前述のように、青春小説でもある。

 

 つまりは、名作というほかない、ということだ。陳腐なように聞こえるが、何度も言うように、それ以上の言葉を何ら要しない真の名作である。

 

 「人間用のドアの、少なくともどれかひとつが、夏に通じているという固い信念を持って」いる猫のピートが、とても愛らしい。猫好きにはたまらないことだろう。猫というのは小説にとても向いている生物だと思う。いつか、猫をテーマにした小説を集めてレビューしていくというのもいいなあ。『夏への扉』を読むと、猫を飼いたい、という気分にもなってくる。

 

 主人公のダニエルは、頑固で、偏屈な、技術者だ。彼の思想は深遠さからは程遠い。だが、単純な思想が真理を言い当てていないということにはならない。

 

なんどひとにだまされようとも、なんど痛い目をみようとも、結局は人間を信用しなければなにもできないではないか。まったく人間を信用しないでなにかをやるとすれば、山の中の洞窟にでも住んで眠るときにも片目を開けていなければならなくなる。いずれにしろ、絶対安全な方法などというものはないのだ。ただ生きていることそれ自体、生命の危険にさらされていることではないか。そして、最後には、例外ない死が待っているのだ。

 

世の中には、いたずらに過去を懐かしがるスノッブどもがいる。そんな連中は、釘ひとつ打てないし、計算尺ひとつ使えない。ぼくは、できれば、連中を、トウィッチェル博士のタイムマシンのテスト台にほうりこんで、十二世紀あたりへぶっとばしてやるといいと思う。

 

 後者の台詞など、完全なる頭でっかちの僕には、何とも身につまされるものがある。こんなに無骨で、愚直で、だが、この上なく優しい主人公は他にはいないだろう。彼は人間を、猫を、いや、すべての生物を愛おしいと思っているのだ。

 

ピートはどの猫でもそうなように、どうしても戸外へ出たがって仕方がない。彼はいつまでたっても、ドアというドアを試せば、必ずそのひとつは夏に通じるという確信を、棄てようとはしないのだ。
そしてもちろん、ぼくはピートの肩を持つ。

 

こんな飼い主をもつ猫はとても幸せだろうな。

 

ソラリスもぜひ読んでみてください。

メフィスト賞の軌跡―その4 乾くるみ

Jの神話 (文春文庫)

Jの神話 (文春文庫)

 

【あらすじ】
全寮制の名門女子高「純和福音女学院」を次々と怪事件が襲う。1年生の由紀は塔から墜死し、生徒会長を務める美少女・真里亜は「胎児なき流産」で失血死をとげる。背後に暗躍する謎の男「ジャック」とは何者か?その正体を追う女探偵「黒猫」と新入生の優子にも魔手が迫る。女に潜む“闇”を妖しく描く衝撃作! 

 

 乾くるみといえば、『イニシエーション・ラブ』が代名詞みたいになってしまった感がある。わかりやすさと衝撃度からいくと確かに『イニシエーション・ラブ』は、最高級で、名作ミステリとしての評価はこの先もゆるぎないままだろう。『イニシエーション・ラブ』から乾くるみに入るという人がほとんどかと思う(僕もそうだった)が、それが気に入った方はぜひともデビュー作『Jの神話』を読んでいただきたい。

 

 いかにもメフィスト賞らしい作品である。本作が受賞したおかげで、メフィスト賞はキワモノとしてのレッテルを貼られることとなったという噂も何となく頷ける。前半は確かにミステリとして話は進む。塔からの不可解な墜落死、美少女生徒会長の怪死、探偵の登場という、誰が読んでもミステリの王道な展開だ。だが、第十二章から様相がおかしくなってくるのだ。読者はここでひとまず本を閉じるかもしれない。「よ、よし…。とりあえずコーヒーでも飲んで気分を落ち着けよう」そんな風に思うだろう。無理をする必要はありません。ゆっくりコーヒーを飲みましょう。

 

 しかし、ふざけているわけではないのである(途中、本当にふざけているのではないかと疑ってしまうが)。最後まで読んでみると、まとめ方が実におもしろい。これどこに着地点をもってくるのかなあ、と思っていると、意外な方向で話がまとまっていく。「ああ、これはあれだ。あの小説と似てるなあ」と感じた。しかし、その小説名はふせておこう。恐らく、話がもろバレとなってしまうから。

 

 乾くるみは、最後まで気を抜けない作家だ。それは『イニシエーション・ラブ』が証明している通りである。本作ももちろんそうで、エピローグまでしっかりと読むことが大事だ。すごい着地点!と膝を打つか、非常にむしゃくしゃするかのどちらかであることは疑いえない。僕は、非常によく練られた話だと思うのだが、どのように感じるかは読者各自に委ねるしかない。

 

 トリックではなく、ギミックで読ませるというのが、本作の特徴だ。全寮制女子学校という特殊で淫靡な響きの漂う閉鎖空間、トラウマを抱えた女探偵、処女懐胎キリスト教という深遠なテーマ、そしてJとは一体何者か。読者はただ乾ワールドに身をゆだねるだけでよい。そうすれば、ミステリか伝奇かホラーかSFか、何とも言えない複雑怪奇な世界を存分に旅することができる。もちろん、Jの正体を当ててみるという野心を抱きつつ、本書を読んでみるのもいい。もし、当てることができたとすれば、あなたはとてつもない変態です。とにかく、全部読んでみることだ。『Jの神話』というタイトルが実に洒落ていることがわかる。

 

 くるみというペンネームだし、やたら女子のことばっかり書くし、絶対女性作家だと思うと大間違いで、その正体はおっさんである。この作品をおっさんが書いているということを念頭に置きながら読むと、ますますこの作品が味わい深いものとなる。

 

よく出版できたな、と思う1冊である。本当に。読んだらわかります。そして、とても科学的であるということも。

 

前回のは、こちら


私の癒し―癒しとは詩である 『谷川俊太郎詩集』

今週のお題「私の癒やし」

 どうしようもなく(身とか心が)くたくたになっているときは、できるだけ何も考えないようにしている。近頃は、ずいぶんと寒くなってきたので、暖かいものが飲みたくなる。そんなに濃くないコーヒーとか、ホットジンジャーとか、ブランデーをちょっと垂らした紅茶とか。そんな飲み物をゆっくりと用意して、出来たての香りを嗅いで、そっと口に含む。身体が暖かくなる。

 

 ふっくらとしたソファに(このときばかりは安楽椅子ではない)座って、目を閉じる。今日も色んなことがあった。だけど、考えるのは今じゃなくていい。何も考えないで(それは言うほど簡単なことじゃない)、頭をからっぽにしてしまおう。好きな音楽をかけておくのもいい。もちろん、シンと静まりかえった静寂の中に身を置いてたって構わない。それから、ゆっくりと本を開く。疲れたときに読む本はいつだって決まっているのだ。

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 谷川俊太郎の詩には、すべてが詰まっている。この世の真理を知りたければ、みんな彼の詩集を読めばいいのに。哲学者とか、科学者とか、小難しいことばっか言ってる人たちはみんな谷川俊太郎のことを知らないんじゃないかと思う。「あなたたちの知りたがってることは、みんなここに載ってますよ」と言ってやりたい(きっと彼らは聞く耳をもたないだろうけれど)。

 

 谷川俊太郎の詩には、孤独がある。不思議だけれど、僕は孤独によって癒されることがある。谷川俊太郎の詩には、悲しさがある。なぜだか知らないけれど、僕は精一杯悲しくなりたいときがある。谷川俊太郎の詩には、怒りがある。僕があいつに言ってやりたい言葉が、何て的確に書かれてるんだろう。谷川俊太郎の詩には、笑いがある。こんな短い詩の中に腹を抱えてしまうほどの笑いが詰まっている。谷川俊太郎の詩には、愛がある。愛は、この世で一番大切なものだろう? 谷川俊太郎の詩には、意味がない。きっとすべての詩には意味なんて無いのかも知れない。意味に疲れたときには、そんな詩がとても心地よい。

 

 谷川俊太郎の詩を読んでいると、言葉には色とか香りがあるんだなということに気づかされる。でもよく考えると当たり前だよな、と思う。だって僕らは毎日言葉に傷ついて、言葉で傷つけて、言葉に倦んで、言葉を無くして家に帰ってくるじゃないか。ぜんぶ言葉なんだよ。

 

 でも癒すのも言葉なんだ。だから、僕は谷川俊太郎の詩集を開く。ここには、僕を傷つける言葉はひとつもない。ゆっくりとページをめくる。言葉が僕の中にゆっくりと入ってくる。僕はゆっくりと言葉を取り戻す。

 

 谷川俊太郎の詩には、すべてが詰まっている。谷川俊太郎の詩は、僕がどんな気分のときにだって、僕の気分にぴったりあった言葉を用意してくれる。その詩は、僕に「僕が僕であっていい」ってことを教えてくれる。

 

僕の(そして谷川俊太郎ファンの誰もが)好きな詩をひとつ引用する。

 

生きる

生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
あなたと手をつなぐこと

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまが過ぎていくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ

 

癒しとは、谷川俊太郎詩集の謂である。

噂―作品に隠されたもうひとつの仕掛け

噂 (新潮文庫)

噂 (新潮文庫)

 

  【あらすじ】
 「レインマンが出没して、女のコの足首を切っちゃうんだ。でもね、ミリエルをつけてると狙われないんだって」。香水の新ブランドを売り出すため、渋谷でモニターの女子高生がスカウトされた。口コミを利用し、噂を広めるのが狙いだった。販売戦略どおり、噂は都市伝説化し、香水は大ヒットするが、やがて噂は現実となり、足首のない少女の遺体が発見された。衝撃の結末を迎えるサイコ・サスペンス。

 

 萩原浩『噂』はミステリ史上、最高傑作のサイコ・サスペンスのひとつである。

 

 新製品の香水を売るために、企画会社によって渋谷の女子高生の間に噂が流される。香水をつけていると3か月以内に恋愛が成就する。ニューヨークには「レインマン」という殺人鬼がいて、女子高生を殺しなぜか足首を切り落とす。「レインマン」は日本にも出没するらしいが、香水をつけていると襲われない。こういった、いかにもありがちな噂が、女子高生の口コミでどんどん広まっていく。しかし、「レインマン」の噂は、ある日現実の事件となり…。

 

 こういった販売戦略が実際にあるかどうかは、僕は知らないが、きっとあるのだろう。作者の荻原浩が、広告代理店勤務経験者ということを考えれば、萩原の体験をもとにしたものなのかもしれない。確かに、都市伝説の伝播力の強さ、女子高生の情報網の広さなどを考えると、こういった戦略は現実のものとしてあっても何らおかしくはない、と思わせる。僕は、都市伝説が実際に起こるという作品を見ると、必ず読みたくなる。怪談、ホラー、都市伝説、陰謀論は大好物なのだ。

 

 殺人鬼「レインマン」を追い詰める刑事は二人いる。くたびれてドロップアウト気味のベテラン刑事・小暮と本庁強行斑係の美人女刑事・名島のコンビである。上司の方が若く、部下の方が年寄というのは現実的にありそうだ。小暮はとまどいながらも、名島の才能を見抜きサポートしていく。
 二人には、どこかしら似通った境遇がある。小暮はシングルファーザー、名島はシングルマザーである。小暮は女子高生の娘・菜摘を男手ひとつで育てるために捜査一課を退いた経歴がある。小暮と菜摘のやり取りが作中ではよく出てくるが、懸命に生きる家族の姿が絶妙に描き出されていて、よい。
 一方の名島は、若くして警部補に昇進しているが、これにはいろいろなわけがある。名島には五歳の男の子がおり、やはりたくましく二人で生きている。
 小暮と名島、この名コンビが捜査以外で親交を深めていく様子も見物だ。人物の細かなディテールまで手を抜くことなく描写しており、人物像がくっきりと浮かび上がってくる。

 

 企画会社コムサイトの美貌の女社長・杖村沙耶とナンバー2である麻生。コムサイト社に翻弄される広告代理店の加藤と西崎。その他、キャラの立った登場人物が色々と出てくる。ストーリー展開は、警察、「レインマン」、コムサイト関係者とそれぞれの視点が移り変わりながら進んでいくというオーソドックスな展開だが、最初から最後まで息をつかせぬストーリーで読者はあっという間に読了してしまうだろう。

 

 ・・・閑話休題

 

 だが、しかしだ。『噂』は単なるシリアル・サイコ・キラーを追い詰めるだけの小説ではない。実は作者は、非常に巧妙にもう一つの仕掛けを用意している。この仕掛けはあまりに巧妙すぎて、さらっと読んでしまうと見逃す可能性が高い。読者の方々は、この仕掛けに気づくことができる(できた)だろうか? 僕は最初読んだとき、しばらく気づくことができなかった。でも、どうしても気になる台詞がひとつあって、それを読み返してみて初めてぞっとしたのだった。まさに、世界が反転する、あの感覚である。自分の中の心象が一瞬にして様変わりする体験。優れた書き手だけが読者にもたらすことのできる衝撃。それが最後の最後に訪れる。そのとき、『噂』が、こんなにも恐ろしい小説だったということを初めて知らされるのである。そしてもう一度読み返してみると、それまでとは全く違う風景が現前する仕掛けとなっている。読者は、そう、裏切りにも似た気持ちを味わうだろう。

 

 もっと話題になってもよかった小説である。恐らくは、仕掛けの巧妙さがそれを困難にしてしまった。自分が騙されていることに、最後まで気づかない小説なのだ。親切な他人からタネを明かされてようやく気づくこととなる。荻原浩の上手さが、上手すぎて、読む者が心底騙されてしまうのである。そのあたりが、幸か不幸か、なかなか評価しづらい作品でもある。

 

 僕は、とても親切な人間なので、読者にはひとつ忠告しておく。登場人物の台詞をひとつたりとも読み逃してはならない。でないと、この小説の真髄を味わわないままに終わってしまうだろう。万が一、気づかずとも十分な読後感を得られる作品なので、気づかないからといって問題はない。いや、むしろ知らぬが仏なのかもしれない。が、怖いものをぜひ見てみたいという方は、穴があくまで紙面を見て、登場人物の台詞を細大漏らさず心にとどめておくのがいいと思う。

 

 最後に、作品に出てくるJKの会話に触発されて僕もJKの会話を考えてみた。

 

「え、なに? 好きピからLINE?」

「うん? 違え。弟から。あ、そういや、こいつあんたに気があるらしいよ」

「マ!?」

「マ。めっちゃタイプらしい」

「うっそおー。 ゲロはげる」

「どうよ?」

「うーん。ありよりのなしかな」

「ありよりのなしかよ。あ、そういやあのダークマター

「あ、うちの隣の席のデブのこと?」

「あいつ授業中あんたのことずっと見てたよ」

「マ!?」

「マ、マ、マ」

「きもさぶ」

 

僕には文才がないですね。残念!

ヘウレーカ!!

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 『又吉直樹のヘウレーカ』は、人生に効く数学の話を聞かせてもらうとコーヒー代はタダ、という風変わりなカフェを舞台に、又吉直樹が若手数学者に話を聞かせてもらう、なかなか趣向を凝らしたTV番組である。九州大学マス・フォア・インダストリ研究所の千葉逸人先生と京都大学白眉センター数理解析研究所助教鈴木咲衣先生が、若手数学者代表として出演されておられたので、これは見逃すまいと録画視聴した。お二人の経歴は次のようである。(それぞれ各大学の自己紹介より引用)

 

千葉逸人先生のプロフィール
専門は力学系理論です。特に解の定性的な挙動を調べるための分岐理論やカオスに興味があり、その対象は低次元力学系から無限次元力学系にまで至ります。近年、物理・工学や生物において結合振動子系(大多数のモノたちが互いに相互作用することで多様な振舞いを見せる系)の研究が盛んになってきており、そこでも大自由度力学系(無限次元力学系)の理論は大活躍されると期待されます。しかし数学的にはまだまだ未開拓であり、極めて豊富な話題を提供してくれます。特に最近は、無限次元力学系において、連続スペクトルがダイナミクスに与える影響の関数解析的な手法による研究や、ネットワーク上の力学系においてグラフのトポロジーダイナミクスに与える影響の研究に興味を持っています。このような数学として困難な力学系の研究は、物理や工学のほうが進んでいることも多く、応用も豊富です。このように他分野とも交流を持ち、応用まで見据えた基礎的な数学の研究を行っています。

 

鈴木咲衣先生のプロフィール
幾何学の中でも結び目理論を専門にしています。その名の通り、「結ばったひも」の構造を数学的に研究する分野です。近年、結び目理論は表現論や数理物理など様々な分野と関連しながら急速に発展しています。私も分野が交錯する場所でもみくちゃにされながら研究をしています。数学をしていると安心します。数学は自由で、どこにいても、何がなくてもできます。孤独?と聞かれることもありますが、そんなことはありません。学問を介すれば、時代や場所を超えて世界中の人とコミュニケーションを取ることができます。もがきあがいた末に大切なのは、素直な感性。心惹かれる物に正直に、きれいなものを見てきれいと思い、大切だと思うものを大切にしたい。白眉プロジェクトでもそんな感性を大切にしながら、日々数学と向き合っていきたいと思っています。

 

 鈴木先生は、今は京都大学におられるが、直前は九州大学におられた。お二人とも九州大学つながりということで、抜擢されたのであろう。僕は数学については、昔から憧れを持っている。自分がたいして数学ができない分、数学が天才的にできる人を見ると称賛の眼差しで見てしまうのだ。特に、昨今の若手数学者(数学者には限らないが)の方々は、僕のような一般大衆に寄り添うようなお話をしてくれる方が多く、聞いていてとても心地が良い。数学の面白さを真剣に伝えようとする、純粋な熱情が真直ぐに伝わってくる。若者の「理系離れ」を解消するために、近頃では、若手たちが色んな場所に駆り出されて中高生相手に話をしているが、僕も若いころにこんな人たちの話を聞いていたら、できないなりに、数学の道を志してもいいかな、という気になっただろう。

 

 お二人に共通するのは、分野の交錯点における数学を専門としておられることだ。数学が、その応用としての本領を発揮する物理や工学と積極的に接点をもちながら奮闘しておられる。数学というと、どうしても抽象的だとか、公理主義的だとかいう何だかお堅いイメージがつきまとうものだが、決してそれだけではない、ということをお二人は番組の中でも教えてくれていた(もちろん、原理から考えることの大事さを強調されてもいたが)。

 

 数学って、世の中の何の役に立つのか(『先に生まれただけの僕』で出る質問だなあ)という質問はよくあるが、犀川先生ばりに「役に立たないから人間的なんだよ」と言い切ってしまうのもかっこいい。でも、「ちゃんと役に立ってるよ」と説明することも大事だと思う。数学やってても食えないよ、という声も聞く。確かにそういう時代もあったのかもしれないが、それは時流に無知な人の妄言に過ぎないだろう。世の中の役に立たない数学などない、というのが昨今の数学事情である。応用数学なしに現代文明など成り立たないだろうから。数学でも十分に飯は食えるはずだ。

 

 実は、この番組を観て、久しぶりに昔ハマッてたカオス理論の本でも読みたいな、と思ったのである。昨日のレビューはこちら。

 カオス理論だけではない、いまや、続々と「新しい科学」は誕生しているのだ。今この瞬間にも。

カオス―科学界の異端理論

カオス―新しい科学をつくる (新潮文庫)

カオス―新しい科学をつくる (新潮文庫)

 

  キューブラー・ロスはその著書『死ぬ瞬間』の中で、死の受容の5段階について述べている。突然、死を宣告された人間は、もちろん個人差はあるものの、おおよそ、否認→怒り→取引→抑うつ→受容の5つのプロセスを経て自らの死を受け入れるという。

 

 カオス理論が、当時の科学界に突きつけたのは「死亡宣告」であった。それは物理学にとっては、決定論に対する死の宣告であり、数学界にとっては公理主義に対する死の宣告であり、科学界全体にとっては線形科学に対する死の宣告であった。この表現はいささか大げさに聞こえるかもしれない。しかし、当時の科学界がカオス理論に対して抱いた感情は、まさに死亡宣告を言い渡されたに等しい感情であったのは間違いないだろう。カオス理論が科学界に浸透するためには、キューブラー・ロスの死の受容の5プロセスを経ねばならなかったのである。それは端的に言って、パラダイムシフトが起こったということに他ならない。

 

 新しい科学は歴史と共に語られなければならない。なぜならそれは、それが必然的に産み出されなければならなかった時代背景を持っているからである。ニュートン力学にはニュートン力学の時代背景があり、量子力学には量子力学の時代背景がある。本書は、すでに古典の部類に属するものであるが、カオス理論黎明期の時代背景が克明に描写されており、他の類書とは一線を画すほど詳細なエピソードがつづられている。理論についても手を抜くことなく、しかし、専門的になることは避けながら、できる限りの範囲でカオス理論のおもしろさを伝えようという意気込みが感じられる。

 

 本書を読んで思うのは、カオス理論はその歴史すらもchaoticであるということだ。ローレンツの「バタフライ効果」に始まり、スメールの馬蹄型写像、離散型ロジスティック方程式、リーとヨークのあまりにも有名な「周期3はカオスを意味する」、フラクタルの象徴ともなったマンデルブロ集合、リュエルのストレンジ・アトラクタ、ファイゲンバウム定数、リブシャベールの実験、マイケル・バーンズレーのカオス・ゲーム、ロバート・ショウの水滴系のカオスなどなど。ちなみに、物理現象におけるカオスを世界で初めて発見したのが上田睆亮であることは蛇足か。

 

 これらを見るだけでもchaoticである。気象学から物理、数学、情報理論にいたるまであらゆる分野を巻き込んでカオス理論が発展してきたことがわかる。それまで目を背けられていたことを糾弾するかのような勢いで、カオス理論は自らの存在を主張し始めたようにも見える。それは、まさに蝶の羽ばたきのように、ある種のノイズとして科学者の目に留まり、いつのまにか、もう後戻りできないくらいまでに科学界に大嵐を巻き起こしたのだ。カオス理論はその誕生そのものがchaoticである。

 

 それは医学をも巻き込んだ。分裂病者の眼の動き、心臓のリズム、血管網や神経網など身体のいたるところにカオスが出現していることがわかっている。僕は恥ずかしいことにこれらの研究には無知であるが、どうやら医学界もカオスの渦と無関係ではいられないようだ。残念ながら、僕の身近にカオスを医学に応用した研究を行っている人はいないが、いつかぜひ会ってみたい。

 

 本書は、古典である。現在の研究はさらに進んでいるだろう。このような分野横断的学問はなかなか浸透しにくい傾向にあるが、いま、現在カオス理論はどの程度までその領野を拡大しているのだろう。物理学からはあまりにも数学的すぎるとされ、数学からはあまりにも物理学的すぎるとされ、常に異端児とみなされて続けてきた「新しい科学」の行く末を、見守っていく価値はある、と僕は思う。

 

 実はこの本を読んだのには、最近観たあるテレビ番組が関係しているのだが、それはまた、次回に語ることとする。