安楽椅子のモノローグ

完全なる頭でっかちを目指す

非線形科学―同期する世界

「分解し、総合する」一辺倒ではない科学のありかたが可能なことは、もっと広く知られてよいと思います。それは分解することによって失われる貴重なものをいつくしむような科学です。

 

 「全体は部分の総和からなる」という文章に、不信感を抱く人はいないだろう。それはあまりにも自明で、別に明言する必要さえないことだと感じられる。ところが、ある程度数学を勉強するとそうではない例というのが出てくる。例えば、「自然数全体の集合」を考える。誰でも知っているように自然数は偶数と奇数に分けられる。では、「自然数全体の集合」が「偶数全体の集合」より大きいかというとそうではない。実際には、「自然数全体の集合」と「偶数全体の集合」の大きさは等しい。それらは正確に1対1対応として関係付けることができるからである。つまり「部分と総和が等しい」ということになってしまうのだ。よほど数学的感覚に優れた人物でなければ、この事実を聞かされたとき何だか狐につままれたような感覚に陥る。しかし、それが論理的に反証不可能だと知るとしぶしぶ認めざるをえない。しかし、心の中ではきっとこう思っているはずだ。百歩譲ってその事実は認めるとしても、あくまでもそれは頭の中のことであって、現実にはありえない、と。
 ところが、それはとんでもない誤謬である。「全体が部分の総和にならない」例は、実は自然界に数多く認められる。しかも、それは我々が日常的に経験する、ごく普通の出来事の中に潜んでいるのである。自然界のリズムをもつ現象―胸の鼓動、呼吸、体内時計、歩行、鳥のはばたき、ホタルの明滅、虫の鳴き声…―はすべて「全体が部分の総和にならない」現象で、同期現象と呼ばれる。これらは長らく科学の対象として不適当なものとみなされてきた。しかし、今、それらは科学の対象として一斉に研究が進み始めている。それを研究する学問は「非線形科学」と呼ばれる。

 

 「理系plus」というサイトに同期現象に関する動画をまとめた記事がある。非常に興味深いのでぜひ一度ご覧いただきたい。 

 

 

 次の数式をご存知だろうか。

 {\displaystyle {\frac {\partial \theta _{i}}{\partial t}}=\omega _{i}+{\frac {K}{N}}\sum _{j=1}^{N}\sin(\theta _{j}-\theta _{i}),\qquad i=1\ldots N}

 同期現象の数学的モデルを作り出そうと試みた科学者がいる。日本が世界に誇る非線形科学の第1人者蔵本由紀(くらもとよしき)である。先に挙げた数式は同期現象の「蔵本モデル」と呼ばれるものだが、この数式を数学的に理解する必要は(研究者でない限り)まったくない。ただ、この数式によって、ホタルの明滅、メトロノームの同期、ミレニアム・ブリッジの騒動といったすべての同期現象の背後に潜む数学的構造を表すことができるということさえ知っていればよい。数学的に知りたい方は、下のサイトをお読みください。非常にわかりやすく解説がなされている。 
 ちなみに「蔵本モデル」に表される数式を数学的に解いたのは、やはり日本人の千葉逸人である。千葉はtwitterでも有名なので知っている方もおられるだろう。ちなみに僕も以前「ヘウレーカ!!」という記事で取り上げたことがある。

 

  驚くべきは、同期現象という非線形的な現象の背後に、それを統一的に表すことのできる1個の数式が存在するという事実であろう。これこそ自然科学の醍醐味である。一見、全く違うように見える現象同士が、共通の数学的原理により記述できるという事実は、我々を驚嘆させる。僕らは別に受験に合格するためだけに数学を勉強しているわけではないんだ、ということがよくわかる事例だろう。自然を記述することすら、数学のごく一部の可能性でしかない。本当に数学って深遠な学問だなあ、とつくづく感じる。

 

 とはいえ、僕のような輩には数式ばかり出されても混乱するだけなので、下の本に頼った。非線形科学に興味をもたれた方には、ぜひお勧めである。

 

 

 「蔵本モデル」の創始者にして、非線形科学の世界的権威蔵本由紀みずからの著作である。この中には、数式はほとんど出てこない。その代わりに、これでもかというほどの同期現象の実例が紹介されている。これほど充実した具体例を、ひとつひとつ解説を加えながら、しかも完結にわかりやすく書いた本というのは、他にないだろう。必読書リストにぜひ加えたい一冊である。

 

 非線形科学的なものの見方というのは、今後の社会にとって必須の教養となるであろう。以前取り上げたカオスもそうであるが、分野を横断し統合する強力な体系が今後も登場し続けるに違いない。僕らはその黎明期を生きているのであり、新しい世界像の立役者に、外ならぬあなた自身がならないとも限らないのである。

 

カオスはこちら。

稲川淳二の恐怖がたり―僕の真冬の風物詩

ヤダなー、怖いなー

 

 気がついたら今年も、もう終わりかけで、年々、年の巡るスピードが速くなっていくのを感じる。もうすぐ秋が終わり、冬がやってくる。冬といえば怖い話だ。寒い季節にさらに寒気を増すために、僕は怖い話を探し求める。最近では、年中かき氷を食べられるようになっているという(もしかして昔から?)。怖い話だって、夏だけのものじゃない。真冬に、かき氷を食べながら、怖い話を聞けるようなイベントがあったら、きっと大盛況になるだろう。魑魅魍魎や怨霊たちに季節など関係ない。

 

 平安時代にはそこかしこに化物たちがいたという。なにせ死体が通りに転がっているのだ。路地には、死人の情念が濃い霧のように立ち上っていたに違いない。その気になれば、当時の人々は、いつだって幽霊と遭遇できただろう。何ともうらやましい世界ではないか。 
 しかし、都市はいつしか衛生という概念によって、整備されるようになっていった。今では、森林伐採が、野生動物の棲み処を侵食しているなどと言われているが、それよりはるか以前に、居場所を奪われるという憂き目に遭っていたのは、化物たちなのである。彼らもまた、声を出せない。僕らはいつだって、声なきものらの領土を侵食することによって、生きてきたのである。

 

 だが、しかし、彼らは息絶えたわけではない(というかすでに死んでいるな…こういうときなんて言えばいいんだろう)。彼らは今ではメディアの中に生息している。彼らはキャラとなり、ヒーローとなり、ヒールとなって、日夜活躍しているではないか。こうして彼らにまつわる話は過去から現在、そして未来へと語り継がれていかれるというわけだ。そして、現代には彼らの優れた語り部も存在している。その元祖であり、今でも最先端を走り続ける男がいる。稲川淳二のことをそのように紹介して疑義を唱える者はまずいまい。

 

 僕は、幼少期からずっと稲川の語りを聞き続け、そして読み続けてきた。彼の話は膨大に存在するので、ひょっとすると聞き漏らしているものもあるかもしれないが、大方のものは知っているつもりでいる。特に、小学生のころは、怖い話マニアだったので、彼の出るTVはすべて録画し、彼の著作は新しいものを発見するたびに買い漁った記憶がある。それは大人になった今でも続いているのだが、彼の数ある著作の中で、僕が大好きなシリーズがこれだ。

 

 これらは、稲川の怪談ライブを、活字化し収録したもので、稲川の話の中でも特に有名で、クオリティの高い作品ばかりがそろった逸品である。すべての巻がおもしろくて、怖い。中には、知っている話もあるだろうが、活字にされることでより詳しく、その話のディテールを追うことができるのが、何とも嬉しい。結構今までうろ覚えだった話もあり、「ああ、あれって本当はこんな話だったんだ」という気づきもある。

 

 僕の好きな話をいくつか紹介すると、

 

「先輩のハト」
 先輩の引っ越し先に後輩が遊びに行ったとき、毎晩窓を開けて寝るとハトが部屋に入ってきて、クックックと鳴きながら部屋をうろつきまわるという話を聞かされます。ある日、先輩が実家に帰るということで、留守番を頼まれたその後輩が、夜中に窓を開けたまま部屋で寝ていると確かにハトがやってきて…

 

「207号室の患者」
 「お願いだから部屋を変えて。窓の外に顔がぐちゃぐちゃになった女がいて、覗き込んでくるの」。207号室の患者は何度もナースコールを押して執拗に懇願してきます。看護師がおそるおそる窓の外を確かめてみても誰もいない。2階の窓の外に人がいるわけないのに。でも、その患者は執拗にナースコールをし続けてきます。そして、最後には…

 

「女王のための歩道橋」
 「この歩道橋は安全のためにつくられました」。人気のない場所になぜか唐突に出現する歩道橋がありました。噂では昔、劇の女王役に抜擢された少女が練習中に、車にはねられて死んだということです。そのような不幸を二度と起こさないために建てられた歩道橋。そこに4人の男女が肝試しにやってきて…(都市伝説としても語り継がれている有名なお話です)

 

 などなど、ほかにも「長い遺体」とか「血を吐く仮面」とか、背筋が凍りつくような話はたくさんある。稲川の話はどれもひねりが聞いていて、オチが来たと思いきや、実は別の真相があって、そっちがさらに怖い、みたいな2段オチも多いので、2回ゾッとできるのもお得である。

 

 そしてやはり稲川淳二最恐の話といえば「生き人形」である。Wikipediaにすら単独記事があるほどの超有名な話なので、聞いたことのない方はぜひ一度聞いてみる(あるいは読んでみる)ことをおすすめする。

 

 稲川淳二は人類最高の至宝であると言ってもよい。異界からきたのではないかと思うほどの心霊体験を有し、それらを惜しみなく語ってくれる。僕は科学をこよなく愛しているが、それと同じくらいこよなく心霊を愛している。それは僕の血が、半分は稲川淳二の怖い話で、できているからなのだ。

ぼぎわんが、来る―こんなの来たらぜったい嫌

それが来たら、絶対に答えたり、入れたらあかんて――

 

f:id:cannakamui:20171101230234p:plain

【あらすじ】
幸せな新婚生活を営んでいた田原秀樹の会社に、とある来訪者があった。取り次いだ後輩の伝言に戦慄する。それは生誕を目前にした娘・知紗の名前であった。正体不明の噛み傷を負った後輩は、入院先で憔悴してゆく。その後も秀樹の周囲に不審な電話やメールが届く。一連の怪異は、亡き祖父が恐れていた“ぼぎわん"という化け物の仕業なのだろうか? 愛する家族を守るため秀樹は伝手をたどり、比嘉真琴という女性霊媒師に出会う。真琴は田原家に通いはじめるが、迫り来る存在が極めて凶暴なものだと知る。はたして“ぼぎわん"の魔の手から、逃れることはできるのか……。怪談・都市伝説・民俗学――さまざまな要素を孕んだノンストップ・ホラー!
最終選考委員のみならず、予備選考委員もふくむすべての選考員が賞賛した第22回日本ホラー小説大賞〈大賞〉受賞作。

 

 日本ホラー小説大賞は、なかなか大賞受賞を出さない。これまで24回公募が行われているが、その半数程度でしか大賞受賞作が出ていないのだ。審査員たちが本気で評価を行なっていることが窺える賞である。大賞受賞作は、小説化のみならず、映像化される可能性も高いということで、勢い選考委員たちも気合が入ることとなるのであろう。大賞のひとつ下は優秀賞であるが、これがすでにクオリティがとても高いので、それを上回る大賞作品というのは、それはもう、とても素人が応募してきたとは思えないほどの完成度を誇っている。

 

 本書『ぼぎわんが、来る』は、第22回ホラー小説大賞の大賞受賞作である。この後、大賞作はまだ出ていない。ホラー小説をあまり読まない読者は、ホラー小説というジャンルに対して、偏見を持っていることが多い。B級ホラー映画のような話が、文章化されたものとしか思っていない人すらいる。グロテスクでスプラッターな描写が延々と続くという誤解もある。こういった感想は単なる食わず嫌いによるものであって、現代ホラーは全くそういうものではないということを知ってもらいたい。

 

 本作は、ぼぎわんという怪物を巡る物語なのだが、そんじょそこらのホラー小説ではない。誇大な宣伝ではなく、本当に、恐ろしいほどよくできた小説なのだ。こんなによく書けていることのほうが、ホラー小説よりもよっぽどホラーではないか、と思うほどである。歴代の大賞作に引けをとらないどころか、それらを凌駕しており、大賞の中の大賞といってもいい作品だ。ホラー小説と呼んでしまうことに、かなりの違和感をすら感じてしまう。

 

 

文句なしに面白いホラーエンタテインメントである。(綾辻行人

 大当たりだった。選考をしながら早く先を読みたくてならない作品だった。(貴志祐介

 恐怖を現在進行形で味わうことができます。迷わず大賞に推しました。(宮部みゆき

 

 

こんな大物作家たちが、手放しで褒めている。面白くないわけがないであろう。

 

 本書は「第一章訪問者」、「第二章所有者」、「第三章部外者」の三部構成になっており、章ごとに三人称の視点が変わっていく構成になっている。これが実に素晴らしいアイデアで、それによって読者は、章が変わるごとに、それまでとは全く違った光景を見せられることとなる。感じとしては、芥川龍之介の「藪の中」に似ている。同じ事件について語っているはずでありながら、語り部が変わることによって、光景が全く違うものに変容する。本書は、現代版藪の中ともいえるような小説であり、読者は次々と様変わりする話に、否応なしに引き込まれることとなってしまうだろう。

 

 ホラー小説として読めるのは当たり前である。実にベタな物の怪vs霊能者という話でもある。そういった意味では、実に古典的で、これといったひねりのない設定ではあるのだが、まったく古臭い印象を受けない。
 ミステリーとしても秀逸である。なぜ、ぼぎわんはやって来るのか。これが読者に提示される謎のひとつである。タイトルはそのまま、読者への謎かけになっているのだ。さらに、ぼぎわんという物の怪の出自自体も謎である。その物の怪はどのようにしてこの世に産み落とされることとなったのか、これが二つ目の謎である。読者はこの謎に挑戦してみるのもいいだろう。分からなければページをどんどん捲れば良い。
 ヒューマンドラマとしても読める。登場人物の背景までもが丹念に描かれる。霊能者は単なる能力者ではない。彼らも人間なのだ。本書では、多くの人間が苦悩を抱えている姿が描かれる。彼らの苦悩にはある共通点がある。一見無関係に見える人々が、共通に抱える問題によって、この作品のテーマが浮き彫りにされる。

 

 作者の澤村伊智は、受賞後も定期的に良質な作品を提供し続けている。今後のホラー界を担う恐るべき人材のデビュー作を読まないという選択は決してあってはならない。

メフィスト賞の軌跡―その5 浦賀和宏

俺がそう決めたんだ。
誰にも文句は―言わせない。

  

f:id:cannakamui:20171031133041p:plain 

【あらすじ】
父が自殺した。突然の死を受け入れられない受験生・安藤直樹は父の部屋にある真っ黒で不気味な形のパソコンを立ち上げる。ディスプレイ上で裕子と名乗る女性と次第に心を通わせるようになる安藤。プログラムにしかすぎないはずの裕子の記憶が紐解かれ、浮上する謎。ミステリー界史上屈指の問題作が今甦る。
本書は先行作品に対する敬意ある挑発である。――京極夏彦(ノベルス刊行時)
(第5回メフィスト賞受賞作)

 

 Wikipedia浦賀和宏の経歴がねつ造されたものでなければ、彼がメフィスト賞を受賞したのは、20歳かそこらのことである。僕は、当時のことをよく覚えていないが、乾くるみ浦賀和宏積木鏡介(それぞれ第4回、5回、6回受賞者)の作品が3冊同時刊行されて話題となったらしい。これまた濃い面々だ。その後の、エンタテインメント界の新しい流れがようやく築かれつつある時代で、懐かしさすら感じる。こうやってメフィスト賞を一から(本当はゼロからだが)読み返してみると、それは広くエンタテインメント界の歴史をなぞることにもなるのだ。まだ「若い」賞だと思っていたが、ここまでくるとそろそろ歴史の重みを感じさせる賞になってきた感がある。

 

 浦賀和宏の作品は1作のみで語ることはできない。常に連作を意識して描いているのかどうかはわからないが、1作目で明らかにされない謎が多数出てくる。デビュー作の『記憶の果て』すら、例外ではない。デビュー作といえば、わかりやすく、読みやすく、1作できちんと解決するが常識であろうが、浦賀は小気味よいほどに、その常識を無視する。最後まで読んでも謎だらけである。伏線の回収がなされない。「ここまで引っ張っといてなんもなしかい!」と叫ぶ読者多数であろう。だが、それでよいのである。

 

 浦賀和宏は既存のミステリを嫌悪しているように見える。探偵という存在、明快なプロット、「必ず」回収される「よくできた」物語、理路整然とした論理的解決、浦賀はことごとくそれらを無視しつづける。そういった完成系としてのミステリ、ひいては文学そのものとの対決姿勢を、デビュー作からもありありと感じとることができる。『記憶の果て』という小説は、エンタテインメント作品としてもよくできた小説だが、その作品自体が、既製文学に対する批判の書として機能しているのだ。

 

 佐藤友哉西尾維新(彼らもメフィスト賞受賞者だ)の作品の主人公もそうだが、本作の主人公である安藤直樹も、強烈に肥大した自己意識を持っている若者だ。その若者が、これまた強烈な自分語りをしながら、話が進んでいく。若者はみんな屈折しているものだ(僕はいまだに屈折している)が、これほどまでに見事に卑屈な男を見ると逆にすがすがしくなる。彼は父の残したコンピュータ上にしか存在しない「裕子」と対話し、魅了されながら物語は進展していく。このコンピュータ上にしか存在しない女性「裕子」と直樹の関係を主軸にした設定というのは、当時の時代背景を反映したものであろう。ちょうどコンピュータが我々の日常生活に浸透し始め、美少女ゲームにハマる若者が増え始めた時期である。このすぐ後に、東浩紀は『動物化するポストモダン』を上梓し、一躍時の人となった、そんな時代だ。

 

 ネタバレになるので詳しくは語らないが、文化的禁忌事項に躊躇なく踏み込んでいくのは、浦賀和宏佐藤友哉西尾維新(いわゆる脱格系)の大きな特徴である。本作は、デビュー作ということもあって、遠慮がちにはなっているが、それでもかなりの紙面を割いて、禁忌事項に切り込んだ描写が見られる。禁忌事項を積極的に取り入れ、それを軽やかに(揶揄しているわけではなく)弄ぶことができるのが、この新しい世代なのだ。また、「セカイ系」という言葉が、まだ生きているのか死語になってしまったのか、よくわからないが、この作品はそれに近い形態のものであろうかとも思われる(もちろん世界を救う話などではないが)。

 

 僕は、浦賀和宏には当初からとても好印象を持っている。いまや押しも押されぬ有名作家になったので、うれしい限りだ。しかし、彼の作家としての道のりは、決して平たんではなかった。デビュー作というのは、良くも悪くも、作家のイメージに大きな影響を与えてしまう。デビュー時からこのような問題作を産み出したことは、浦賀和宏にとって、それほど幸運なことではなかったのかもしれない。だが、若いということは何をやってもよいということなのだから、これでよかったのだと僕は思う。その後の浦賀は、手探りを繰り返し、いろんな実験的ミステリを描きながら、堂々と今の地位を確立した。

 

 本作は安藤直樹シリーズとして驚くべきことに今も続く「シリーズもの」と化している。これほどぶっ壊れた世界を連作として描き続けることに、僕は度肝を抜かれた覚えがある。本作では脇役だったものが主役になり、本作では語られなかった伏線が語られていく。しかし、浦賀和宏はすべての物語をきれいに、回収して終わろうなどという、ありきたりな良心は持ち合わせていないことに注意しよう。

 

 浦賀和宏以降の脱格系は、デビュー時からより洗練された形で作品を書き、純文学の領域にも華麗に進出するようになった。それは彼らの筆力が優れているのは、もちろんなのだが、それだけではなく、浦賀和宏の存在が大きいだろう。浦賀が本作『記憶の果て』において、脱格系のプロトタイプを鮮やかに提示してくれたからこそ、以降の書き手たちはそれを下地にして、より優れた書き方を創出できるようになっていったのである。

 

前回のは、こちら。

心臓の力―知っているようで知らない心臓

 生命はリズムを刻む。リズムを刻むことこそ、生きている証なのかもしれない。例えば、消化管の蠕動運動。調和のとれたリズムで運動が行われるからこそ、僕らは食物やその残渣を口から肛門まで送り届けることができる。例えば、ホルモン分泌。その律動的な分泌によって、僕らの生にリズムが刻まれ、逆説的だが、体内の恒常性が保たれることとなる。例えば、心臓の拍動。生命の誕生から死までの間、その臓器は一定のリズムで全身に血液を送り続ける。僕らの発生にとって最もcriticalな臓器は、脳だと思われがちであるが、心臓の方がよりcriticalである。無脳児というのは有り得ても、無心児というのは有り得ない。心臓が発生しなければ、ヒトはヒトになることさえできないのだ。

 

 心臓に関する研究には、これまでにも相当な人材と才能が費やされてきたし、驚くべき発見がなされてもきた。にもかかわらず、心臓は我々にとって、未知で有り続けているともいえる。『心臓の力』を読むと、そのことを痛感する。ここには、我々が今まで考えもしなかったような発見が記されている。(いつも言っているが)これほど重大な発見を、一般書として読むことのできる国に生まれたことに僕は、いくら感謝しても感謝しきれるものではない。

 

 自律神経というものを読者は知っておられることと思う。それは運動神経や感覚神経といった我々が意識できる神経(こういった神経を体性神経と呼ぶ)と違い、意識することはできない。自律神経は我々の意識にのぼることはない。だが、それは、絶え間なく臓器に働きかけ、呼吸、循環、体温など(いわゆるバイタルサイン)を調節し、体内環境を一定に保つ働きをしている。

 

 自律神経には、交感神経と副交感神経の二種類が存在する。有り体にいえば、交感神経は興奮状態に関係し、副交感神経は安静状態に関係する(正確にはこの限りではないが)といえる。ほとんどの臓器には、この2つの神経が分布していて、臓器のアクセルとブレーキを調節している。心臓ももちろん例外ではなく(当たり前だが、最もアクセルとブレーキの調節が必要な器官だから)、交感神経と副交感神経が分布しているが、これまで謎だったのは、この分布に極端な偏りがあるという事実だった。心臓では交感神経が、副交感神経に比べて圧倒的に多い。つまり、心臓はいつもアクセルをかけられながら動いているということだが、なのに、なぜ心臓は過労死することがないのか。

 

 

 

 柿沼由彦は、その謎の解明者である。彼が解明したのは、心臓に関する驚くべき事実だが、実はそれだけにとどまらない。彼の発見したNNCCS(a non-neuronal cardiac cholinergic system)は、生体全体に対する我々の見方を刷新する(すでに刷新した)驚くべきシステムである。これは、心臓が、副交感神経系に匹敵するほどのアセチルコリン産生臓器であるということを発見したものであり、有史からの心臓についての常識を大きく覆すものであった。

 

 ちなみにアセチルコリンというのは、副交感神経から分泌される神経伝達物質であり、交感神経末端から分泌されるノルアドレナリンという物質に拮抗する働きをもっている。そうして、アクセルがかかり過ぎないように我々の人体は絶妙に調節されている。

 

 心臓に副交感神経が少ないのは、これまでは、心臓においてはアクセルをかけることの方がより重要だからだと思われてきたが、柿沼のこの発見により、そうではないことがわかった。心臓は自らがアセチルコリン産生器官であるために、副交感神経をそれほど必要としなかったのである。実は、神経をもたないような原始的単細胞生物アセチルコリンを産生することが知られている。アセチルコリンは進化の大昔から生命にかかわり続けてきた物質なのであり、その分泌を神経が担うようになったのは、ごく最近のことに過ぎない。だったら別に、心筋細胞がアセチルコリンを分泌するなんて、驚くにあたらないと思われるかもしれないが、推論することと事実を突き止めることの間には、天と地ほどの差があるのだ。特に生命科学においては、どんな大胆な推論だって言おうと思えば幾らでも言える。だが、それが真であると証明するのには、莫大な労力(と資金)、そして何よりもそれを実現する英知が必要となる。柿沼はそれをやってのけたのだ。

 

 驚くのはそれだけではない。柿沼の発見以降、アセチルコリンは心筋細胞以外の細胞も産生・分泌しているという報告が続いている。柿沼の「NNCCS」は、今ではさらにそれを包括する概念である「NNA(a non-neuronal ACh)」として、世界中で研究が進められるようになっている。

 

 「副」交感神経という、微妙なネーミングのせいで、これまでそれほどスポットライトが当ててこられなかったアセチルコリンは、今や、主役の座に躍り出たといっても過言ではない。このことは、生体においては、アクセルよりもブレーキをかけることの方が、より重要だということを意味してはいないだろうか。

 

 アクセルよりブレーキをという考え方は、心臓の分野では特に顕著で、その昔、心不全治療と言えば、心臓を無理やり働かせる「強心薬」による治療が主流であったが、現在では、逆に心臓のはたらきを抑える「β遮断薬」による治療が主流である。心臓のポンプ機能が弱まっているなら、人工的に強めてやろう、というのはごく自然な考えである。だから、昔は「強心薬」でがんがん心臓を動かした。それが正しいとみんな信じていた時代があった。ところが、臨床研究の結果は、その考えが誤りであることを証明した。「強心薬」は、心不全患者の予後を延ばすどころか、縮めるという結果となったのである。さらに、びっくりしたのは、むしろ心臓の働きを抑えてやった方が、予後が改善することがわかったことだ。その後、心不全治療はそれまでとは真逆の方向へ進んでいった。そして、現代はまさに「β遮断薬」全盛期の時代である。だが、これは柿沼のNNCCSとは全く関係ない。

 

 今後はさらに、アセチルコリンに焦点をあてた治療方法が確立されていくだろう。柿沼らは、新しい治療法の可能性をすでに提唱しているので、ぜひ本書を読んでいただき、その斬新な治療法の端緒の目撃者となっていただきたい。

 

 僕は、心臓が好きなので、今日はいささか長い記事になってしまった。が、最後にもうひとつ。つい最近、『Cell』という、トップジャーナル(山中伸弥のiPS細胞が発表されたのもこの雑誌だ)に、心臓には心臓に特有のマクロファージ(免疫細胞の一種)がいて、それが実は心臓のリズムを調節しているという論文が発表された。今度は免疫かよ! と僕の胸は高鳴っている。 

http://www.cell.com/cell/fulltext/S0092-8674(17)30412-9

 

  心臓の新しい世紀が始まってきた予感がする。

 

 以前、皮膚についても記事を書いたので、よかったら読んでみてください。

夏への扉―僕らはみんな夏への扉を探している

 

 必読である。この作品を読まずに死ぬのはもったいない。

 

 どこがすごいか、言ってみよう。まず、タイトルが秀逸である。次に、ストーリーがおもしろい。その上、読後感も最高だ。こんな3拍子揃った小説がハズレなわけがない。
 何だ、そのあまりに普通の褒め方は、と思われる向きもあろうが、たったこれだけでいいのである。嘘も大げさも紛らわしさもいらない。『夏への扉』について、賛辞の言葉を述べるのには、何の脚色も要しないのだ。

 

「どうせ嘘っぱちだろう」と思って、1ページめくるだけでよいから、どうぞやってみてください。気づいた時にはもう読み終わっています。

 

 かわいそうなおじさんと猫の話である。しかし、この小説には妙な若々しさがある、と感じた。読み進むにつれ、そんな気持ちがどんどん大きくなっていく。確かにおじさんと猫だよ…な。でもなんか、少年が精いっぱい人生に奮闘して、もがいて、生き抜いていく様が描かれているような、爽やかな青春小説を読んでいるような気分がしてくるのだ。初めて日本で翻訳が出たのが、1958年という。それ以来、長きにわたりオール・タイム・ベスト上位ランカーの座を譲らないのも頷ける(以前、記事を書いた『ソラリス』は、しかし、『夏への扉』を凌駕する人気を誇るようだが、僕自身は甲乙つけがたいと思う)。

 

 「冷凍睡眠(コールド・スリープ)」が実用化された近未来を描いたSF小説であることは言うまでもないが、この作品にはその他、「タイム・トラベル」も出てくる。そして、本作は、この「タイム・トラベル」を利用した上質なエンタテインメント小説としても読むことができる。さらには、何ともあっぱれな勧善懲悪を描いた痛快な冒険活劇として読むこともでき、はては、この上ない究極の恋愛小説として堪能することもできるのだ。もちろん、前述のように、青春小説でもある。

 

 つまりは、名作というほかない、ということだ。陳腐なように聞こえるが、何度も言うように、それ以上の言葉を何ら要しない真の名作である。

 

 「人間用のドアの、少なくともどれかひとつが、夏に通じているという固い信念を持って」いる猫のピートが、とても愛らしい。猫好きにはたまらないことだろう。猫というのは小説にとても向いている生物だと思う。いつか、猫をテーマにした小説を集めてレビューしていくというのもいいなあ。『夏への扉』を読むと、猫を飼いたい、という気分にもなってくる。

 

 主人公のダニエルは、頑固で、偏屈な、技術者だ。彼の思想は深遠さからは程遠い。だが、単純な思想が真理を言い当てていないということにはならない。

 

なんどひとにだまされようとも、なんど痛い目をみようとも、結局は人間を信用しなければなにもできないではないか。まったく人間を信用しないでなにかをやるとすれば、山の中の洞窟にでも住んで眠るときにも片目を開けていなければならなくなる。いずれにしろ、絶対安全な方法などというものはないのだ。ただ生きていることそれ自体、生命の危険にさらされていることではないか。そして、最後には、例外ない死が待っているのだ。

 

世の中には、いたずらに過去を懐かしがるスノッブどもがいる。そんな連中は、釘ひとつ打てないし、計算尺ひとつ使えない。ぼくは、できれば、連中を、トウィッチェル博士のタイムマシンのテスト台にほうりこんで、十二世紀あたりへぶっとばしてやるといいと思う。

 

 後者の台詞など、完全なる頭でっかちの僕には、何とも身につまされるものがある。こんなに無骨で、愚直で、だが、この上なく優しい主人公は他にはいないだろう。彼は人間を、猫を、いや、すべての生物を愛おしいと思っているのだ。

 

ピートはどの猫でもそうなように、どうしても戸外へ出たがって仕方がない。彼はいつまでたっても、ドアというドアを試せば、必ずそのひとつは夏に通じるという確信を、棄てようとはしないのだ。
そしてもちろん、ぼくはピートの肩を持つ。

 

こんな飼い主をもつ猫はとても幸せだろうな。

 

ソラリスもぜひ読んでみてください。

メフィスト賞の軌跡―その4 乾くるみ

Jの神話 (文春文庫)

Jの神話 (文春文庫)

 

【あらすじ】
全寮制の名門女子高「純和福音女学院」を次々と怪事件が襲う。1年生の由紀は塔から墜死し、生徒会長を務める美少女・真里亜は「胎児なき流産」で失血死をとげる。背後に暗躍する謎の男「ジャック」とは何者か?その正体を追う女探偵「黒猫」と新入生の優子にも魔手が迫る。女に潜む“闇”を妖しく描く衝撃作! 

 

 乾くるみといえば、『イニシエーション・ラブ』が代名詞みたいになってしまった感がある。わかりやすさと衝撃度からいくと確かに『イニシエーション・ラブ』は、最高級で、名作ミステリとしての評価はこの先もゆるぎないままだろう。『イニシエーション・ラブ』から乾くるみに入るという人がほとんどかと思う(僕もそうだった)が、それが気に入った方はぜひともデビュー作『Jの神話』を読んでいただきたい。

 

 いかにもメフィスト賞らしい作品である。本作が受賞したおかげで、メフィスト賞はキワモノとしてのレッテルを貼られることとなったという噂も何となく頷ける。前半は確かにミステリとして話は進む。塔からの不可解な墜落死、美少女生徒会長の怪死、探偵の登場という、誰が読んでもミステリの王道な展開だ。だが、第十二章から様相がおかしくなってくるのだ。読者はここでひとまず本を閉じるかもしれない。「よ、よし…。とりあえずコーヒーでも飲んで気分を落ち着けよう」そんな風に思うだろう。無理をする必要はありません。ゆっくりコーヒーを飲みましょう。

 

 しかし、ふざけているわけではないのである(途中、本当にふざけているのではないかと疑ってしまうが)。最後まで読んでみると、まとめ方が実におもしろい。これどこに着地点をもってくるのかなあ、と思っていると、意外な方向で話がまとまっていく。「ああ、これはあれだ。あの小説と似てるなあ」と感じた。しかし、その小説名はふせておこう。恐らく、話がもろバレとなってしまうから。

 

 乾くるみは、最後まで気を抜けない作家だ。それは『イニシエーション・ラブ』が証明している通りである。本作ももちろんそうで、エピローグまでしっかりと読むことが大事だ。すごい着地点!と膝を打つか、非常にむしゃくしゃするかのどちらかであることは疑いえない。僕は、非常によく練られた話だと思うのだが、どのように感じるかは読者各自に委ねるしかない。

 

 トリックではなく、ギミックで読ませるというのが、本作の特徴だ。全寮制女子学校という特殊で淫靡な響きの漂う閉鎖空間、トラウマを抱えた女探偵、処女懐胎キリスト教という深遠なテーマ、そしてJとは一体何者か。読者はただ乾ワールドに身をゆだねるだけでよい。そうすれば、ミステリか伝奇かホラーかSFか、何とも言えない複雑怪奇な世界を存分に旅することができる。もちろん、Jの正体を当ててみるという野心を抱きつつ、本書を読んでみるのもいい。もし、当てることができたとすれば、あなたはとてつもない変態です。とにかく、全部読んでみることだ。『Jの神話』というタイトルが実に洒落ていることがわかる。

 

 くるみというペンネームだし、やたら女子のことばっかり書くし、絶対女性作家だと思うと大間違いで、その正体はおっさんである。この作品をおっさんが書いているということを念頭に置きながら読むと、ますますこの作品が味わい深いものとなる。

 

よく出版できたな、と思う1冊である。本当に。読んだらわかります。そして、とても科学的であるということも。

 

前回のは、こちら