安楽椅子のモノローグ

完全なる頭でっかちを目指す

量子コンピュータとは何か―理解不能の海を漂う

 量子力学を初めて学んだとき、人はその理論の示す「わけのわからなさ」に強い違和感を覚える。量子というものの特異な振る舞いを受け入れることができるかどうかは、量子力学を制覇する(制覇できたといえる人間が何人いるだろう?)ためのまず最初の壁である。そして、その壁は高い。たとえば、今ではあまりにも有名な「シュレーディンガーの猫」の話。 

 

 

 ミクロの出来事をマクロな比喩で語ろうとする滑稽さがここにはある。しかし、これが猫でなかったとしたら、それが微小な粒子だとしたら、事態はどうなるのだろう。たとえば、1個の原子の自転現象を考えてみる。「時計回り」に回転しつつ「反時計回り」にも回転する原子などというのがありうるのだろうか。僕らはこれについても、やはり「ない」と答えるだろう。とすると、僕らは猫であろうが、原子であろうが、そのような二つの状態の重なり合いを肯定することはできないということになる。結局、僕らはミクロな出来事をミクロな比喩で語ったところで、量子力学を受け入れることには抵抗を感じてしまうというわけだ。マクロの偏見を取り除くのは容易いことではない。

 

 人はいうだろう。「そのような状態の重ね合わせというのは、理論的要請からくるものであることはわかる。だが、納得はできない。どうしても納得させたいならシュレーディンガーの猫を現前させてみせよ」と。実は、シュレーディンガーの猫は、実際に現実のものとなりつつあるといったら驚くだろうか。もちろん、猫のレベルでは到底不可能である。しかし、原子レベルでは実験が成功しているというのだ。

 

 最近、次のような本を読んだ。

 

 

0と1の切り替えの連なり――どんな高性能コンピュータも、根本にあるのはこの原理だ。だが、0と1の状態が「両方同時に」あり得たら? 量子力学に基づいた、一見不可解なこの「重ね合わせ」状態を用いることで可能になる、想像を絶する超高速演算。その実現は科学の大きな進歩を約束する一方、国防や金融を根底から揺るがす脅威ともなりうる……話題の次世代コンピュータの、原理から威力までが一冊でわかる最良の入門書。

 

 量子コンピュータというのは、文字通り、量子の性質を利用して設計されたコンピュータのことである。量子が一体コンピュータのブレイクスルーと何の関係があるというのか。僕はコンピュータの仕組み自体ほとんど知識がないが、精一杯、僕なりの解釈をやってみるとこういうことだろう。
 すなわち、コンピュータとは0と1からなる文字列の処理を行うものである。例えば、あるひとつの文字列(例えば1100010110)は、ある一つの情報に対応していると考えればよい。この情報はすべてのコンピュータで共通であるので、それを入力すれば常に同じ応答が返ってくる。ひとつの文字列にはひとつのスイッチが対応している。だから、この例のように10桁の0と1の並びでコンピュータをつくろうと思ったら、2の10乗=1024個のスイッチを必要とする。文字列が増えれば、当然スイッチの数は幾何級数的に増加していく。
 だが、量子コンピュータならそうではない。なぜかというと量子は0と1を同時にとることができるからだ。したがって、量子コンピュータの場合、さきほどの10桁の0と1の並びを表現するためにはたった10個のスイッチしかいらないこととなる。これは驚異的なことだ。試しに文字列を11桁にしてみれば、驚異がよくわかる。スイッチはたった1個しか増やす必要はない、だが、表現できる文字列は1024から2028に増える。桁数がさらに増えると量子はさらに力を発揮するだろう。スイッチは1個ずつしか増えないのに、表現できる文字列の数は幾何級数的に増加していくのだ。
 演算になると、量子の威力はさらに増す。量子はすべての状態の重ね合わせであるのだから、すべての演算を一気に並列して行うことができる。しかし、従来型のコンピュータでは、1回に行えるのは、ただひとつの演算のみだ。

 

 僕の説明はあまりにも稚拙で下手すぎるだろう。だが、心配はいらない。皆本書を読めばいいのである。僕の説明の100万倍くらい詳しくて、わかりやすい解説が施されてある。

 

 量子コンピュータが完成されれば、我々の生活は一変する。今まで不可能だった素因数分解が一瞬で解かれ、公開鍵暗号はすぐにも破られるかもしれない。はたまた、タンパク質の折りたたみ問題や、セールスマン巡回問題といった「NP完全」問題が解かれるかもしれない。

 

 

 

 量子は、ますます「わけのわからない」ものになっていくような気がする。
 それは一部の人間(僕ではない)にとっては、崇高な数学的原理に基づく物理的存在であり、また、別の人間(僕ではない)にとっては、情報世界に革命をもたらす可能性を秘めた宝の原石であり、さらに別の人間(これが僕である)にとっては、いつまでも知的好奇心をくすぐり続けてくれる遊び道具なのである。

 

 量子の「わけのわからない」海のなかを、僕は、いつまでもたゆたっていたい。

メフィスト賞の軌跡―その7 新堂冬樹

ゴードン・ドライ・ジンもロンリコ・ホワイトも、洒落たカクテルにしては貰えず、私に生(き)のまま飲まれていた。今度はヘルメス・アブサンが、消毒液の代わりにさせられようとしていた。 

 [新堂冬樹]の血塗られた神話 (幻冬舎文庫)

【あらすじ】
 債務者への過酷な徴収から「悪魔」と呼ばれた街金融の経営者・野田秋人の元に、ある日、惨殺された新規客の肉片が届いた。調査を始めた野田に、客を自殺に追い込んだ五年前の記憶が蘇る。そして、事件の影に浮かび上がる、かつて愛した女の名。惨殺は野田に対する復讐の始まりなのか――。金融界に身を置いていた著者のリアリティー溢れる衝撃作。

 

 新堂冬樹といえば、もはや暗黒小説の押しも押されもせぬ大家となった感がある。デビューがメフィスト賞だったいうのは意外だ。この頃のメフィスト賞は、前回までの記事でも書いたように、圧倒的なキワモノ感が強かったのだが、新堂冬樹の受賞で、そういうものばかり受賞させる気でもない、ということがはっきりした。新堂冬樹の受賞は、メフィスト賞にとっての、ひとつの新たな方向性を示したものともいえる。

 

 金融関係で働いていた経歴があるため、本作『血塗られた神話』は、かなりのリアリティを感じさせるような小説に仕上がっている。人間の描き方が、上手い。一人ひとりの人間たちが没個性ではなく、キャラが立っていて、すんなりと人物像が頭の中に入ってくる。さらに、人間のどす黒い欲望や、一筋縄ではいかない者同士の微妙な駆け引きとか、耐え難い後悔の念とか、そういった決して綺麗ではない部分をこれでもかというくらいしっかりと描ききっている。たまらないのは、ミステリ色もきちんと取り入れてくれているところで、本作には、ハウダニット的な要素はさすがにないものの、なぜこのような事件が起きてしまったのかについてのホワイダニット、一体誰が黒幕なのかについてのフーダニット的な要素があって、謎を解く楽しみも味わうことができる。
 初めから終わりまで怒涛の展開が続く。読者は一息たりともつけずに、ページをめくり続けることになるだろう。事態は二転三転、敵味方入り乱れ、興奮冷めやらぬまま物語が一気に終盤まで駆け抜けていく。ハードボイルド感も満載で、ページのそこかしこに紫煙ときついアルコールの匂いが漂っているような錯覚に陥る小説だ。アクションもある。不慣れな読者はあまりの痛みに顔をしかめるかもしれない。エンタテインメント要素が必要十分に配合された、ノンストップハードボイルドノワールサスペンス(こんな冗長な言い方あるかな?)なのである。

 

 かつて「悪魔」と称されていた男・野田秋人の経営する消費者金融の客の男が、ある日殺される。さらに、殺された男のものと思しき肉片が野田の元に届けられた。
 野田には、忘れられない事件があった。5年前に彼の店の客だった男が自殺したのだ。彼はその事件をきっかけに愛する女をひとり置き去りにして、その女のもとを去ってしまった。それは野田にとってのトラウマである。今回の事件は野田に恨みをもつものの犯行なのか? 5年前の記憶と現在がオーバーラップする。警察は野田を疑うが、野田は事件の背後に復讐の匂いを感じとり、独自に調査を始めていく…。

 

 単純に事件が進んでいくだけではない。事件は過去と現在を結びつける役割をしている。共時的な視点と通時的な視点の両方から事件が、そして野田という男とその関係者たちの輪郭が、どんどん浮き彫りになってくる。この野田の過去というのが、本作に時間的な奥行きを与えるのに成功しており、作品が立体感を得ることにもつながっている。

 

 僕は、作品を書くということに、実体験というのは、大して必要ないものだと思っているが、新堂冬樹の作品を読むと、実体験がすごく活かされていて、現場で過ごした経験がなければ書きようがない作品というのも確かにある、と思わされてしまう。特に、こういう消費者金融関係の話なんて、業界に何の関係もない人が書いても、全然現実味を持ちえないだろう。もちろん、そこに新堂冬樹の圧倒的な筆力が加わるからこそ、作品として成立するのであって、単なる経験だけで作品が書けるというわけでは決してない。

 

 新堂冬樹は、実体験を作品に落とし込む能力と、それを物語に仕立て上げる恐るべき筆力を兼ね備えた稀有な作家である。しかも、暗黒面を完全に排した純愛小説も書けるというのだからその才能たるや、いまだ計り知れない。ファンのいう、いわゆる「黒新堂」と「白新堂」であるが、みなさんはどちらがお好みだろうか。ワイン比べをするように、読み比べしてみるのもおもしろいだろう。

 

 すべての暗黒小説がそうであるように、結末は胸をえぐられるようなやるせなさと悲しみが襲ってくる。読者はティッシュペーパーを箱で用意しておいたほうがよい。でないと、涙と鼻汁で顔面が原形をとどめないほどに壊れてしまうかもしれない。あるいは、自分がどうしようもない無法者にでもなれたという勘違いを起こすかもしれない。そんな時でも決して盛り場でいきがったりしないように。ボコボコにされて終わります。

 

 作中にやたらとカブトムシの記述が詳しい箇所がある。ご存じの方も多いかと思うが、新堂は無類の昆虫好きでもある。こういうマニアぶりをちらっと垣間見せるというのが、何ともお茶目である。新堂は、作家兼コンサルタント兼芸能事務所経営者兼昆虫博士という多彩な顔を持つ異色な作家でもあるのだ。メフィスト賞は本当にいい作家を見つけてくれるが、新堂冬樹はその中でも1、2を争う才能の輝きを誇っている。

 

前回のは、こちら

 

メフィスト賞の軌跡―その6 積木鏡介

革製の黒い乗馬靴、黒い胴着、黒い頸布、それに黒いカウボーイハット――黒尽くめの男だ。骨張った頬に、冷酷で残忍そうな細い目(どこかで見たような顔だ)。そして腰に巻かれたガンベルト!
(西部劇のカウボーイ、いや、ガンマン?)
唐突に、男の嗄れた濁声が響いた。
「ストーンウォール・ジャクソンは屑だ」
「えっ!?」

 

【あらすじ】
第6回メフィスト賞受賞作。
「私は確信する、空虚を嘆くべきではないと。私は空虚の意味で無なのではなく、創造者的虚無だ。その無から私自身が創造者として一切を創り出すのだ」(シュティルナー著『唯一者とその所有』より)

全ては何の脈絡も無く唐突に始まった。過去の記憶を全て奪われ、見知らぬ部屋で覚醒した私と女。
舞台は絶海の狐島。3人の惨殺死体。生存者は私と女、そして彼女を狙う正体不明の殺人鬼だけ……の筈だったのに。この島では私達が想像もつかない「何か」が起こっていたのだ。
蘇る死者、嘲笑う生首、闊歩する異形の物ども。あらゆる因果関係から排除された世界──それを冷たく照覧する超越者の眼光。
全ては全能の殺人鬼=<創造主>の膿んだ脳細胞から産まれた、歪んだ天地創造の奇跡だった。

 

 奇書である。
 いわゆるメタミステリだな、というのは読んですぐにわかる。なにせ冒頭がいきなり結末から始まるのだから。そこから時間が巻き戻るようにして結→転→承→起の順に物語が進んでいく。当然のことながら、普通のミステリのような推理や事件解決など期待できない。

 

 本作は、ミステリ創作という行為自体を主題としたメタミステリであり、作中人物だけでなく、作者も小説中に姿を垣間見せる。自らが創造した小説のプロットに作者自身が囚われ、どんな手段を用いてもプロットを完遂させるべく作者があの手この手を弄していく。そこに作中人物も介入し、事態は混沌を極めていくという主旨の小説だ。とにかくやりたい放題、書き散らし放題である。

 

 読者を選ぶ小説である。メフィスト賞なので、濃いのは当たり前だとしても、なかでもとびきりの濃さを醸し出す小説となっている。こういう作品をデビュー作として書き上げてしまうのは、作家にとって、その後の重荷にならないのだろうかと思ってしまう。きっと余計なお世話なのだろうが。しかし、第7回座談会で

 

でも、あと書けなくても、この作品がいま目の前にあることだけでいいのではないか。だから、これから続々メフィスト賞は誕生していきます。

 

とのコメントがある。なるほど、こういう担当者の方針があったから、乾くるみ浦賀和宏積木鏡介という作家たちのデビューがあったのだな、と妙に納得した。彼らはもしかしたら一発屋になっていたとしても何らおかしくない作家だったのではないか。だが、書き手が新世代なら読み手だって新世代なのだ。彼らを受け入れるための素地は十分にできていたのだ。彼らはみな一発屋にはならなかった。

 

 メタミステリ、あるいはアンチミステリというのは、ジャンルを明確にするのが難しい。どこからがメタでどこからが非メタなのか、それは結構主観的な区分である。日本には、『黒死館殺人事件』、『虚無への供物』、『ドグラ・マグラ』、『匣の中の失楽』という世界に誇る四大アンチミステリが存在するが、これらはどれもすべてテイストが異なる(『虚無』と『匣』は近しいが)。もし、『歪んだ創世記』を読んで面白いと感じた読者は、これらも読んでみるとよいだろう。アンチミステリの旅に出かけるというのもなかなかオツなものである。

 

 積木鏡介は、和光大学出身であるが、この和光大学というのが、侮れない大学だ。数々の個性的有名人を輩出する大学で、出身者には、漫画家でいうと、大場つぐみ(『DEATH NOTE』)、岩明均(『寄生獣』)、松本大洋(『ピンポン』)、吉田戦車(『伝染るんです。』)がいて、作家で言うと、虚淵玄(『魔法少女まどか☆マギカ』)、前田司郎(劇団五反田団主宰)、笠井潔(『サマー・アポカリプス』)そして積木鏡介がいる。この他にも有名人多数である。大学のスローガンは「異質力で、輝く。和光大学」というから、そりゃあ個性が育つわけだ。しかも、平凡な個性ではない。

 最近あまり活動していないなと思っていたら、清涼院流水主宰の「The BBB」で、電子書籍を出版している。都市伝説刑事という興味をそそられる書籍だが、僕は未読である。ぜひ読んでみたい。

 [積木鏡介]の都市伝説刑事 事件1: メリーさんのメール (The BBB: Breakthrough Bandwagon Books)

 乾くるみ浦賀和宏積木鏡介は、みんな既存のミステリに対する挑戦ともとれる小説を書きデビューした。強力な個性とミステリ界に一石を投じてやろうという気概が感じられる作品ばかりである。特に、積木の小説は、型破りだ。既存のミステリに飽きたという読者にこそ、おすすめの一冊である。きっと、新しい世界へあなたを誘ってくれることだろう。

 

 最後に、大切な助言を。表紙カバーは決して捨ててはならない。本のすべてが小説世界の一部であるから。

 

乾くるみ浦賀和宏も合わせて読むと、新たな発見があるかもしれません。

 

非線形科学―同期する世界

「分解し、総合する」一辺倒ではない科学のありかたが可能なことは、もっと広く知られてよいと思います。それは分解することによって失われる貴重なものをいつくしむような科学です。

 

 「全体は部分の総和からなる」という文章に、不信感を抱く人はいないだろう。それはあまりにも自明で、別に明言する必要さえないことだと感じられる。ところが、ある程度数学を勉強するとそうではない例というのが出てくる。例えば、「自然数全体の集合」を考える。誰でも知っているように自然数は偶数と奇数に分けられる。では、「自然数全体の集合」が「偶数全体の集合」より大きいかというとそうではない。実際には、「自然数全体の集合」と「偶数全体の集合」の大きさは等しい。それらは正確に1対1対応として関係付けることができるからである。つまり「部分と総和が等しい」ということになってしまうのだ。よほど数学的感覚に優れた人物でなければ、この事実を聞かされたとき何だか狐につままれたような感覚に陥る。しかし、それが論理的に反証不可能だと知るとしぶしぶ認めざるをえない。しかし、心の中ではきっとこう思っているはずだ。百歩譲ってその事実は認めるとしても、あくまでもそれは頭の中のことであって、現実にはありえない、と。
 ところが、それはとんでもない誤謬である。「全体が部分の総和にならない」例は、実は自然界に数多く認められる。しかも、それは我々が日常的に経験する、ごく普通の出来事の中に潜んでいるのである。自然界のリズムをもつ現象―胸の鼓動、呼吸、体内時計、歩行、鳥のはばたき、ホタルの明滅、虫の鳴き声…―はすべて「全体が部分の総和にならない」現象で、同期現象と呼ばれる。これらは長らく科学の対象として不適当なものとみなされてきた。しかし、今、それらは科学の対象として一斉に研究が進み始めている。それを研究する学問は「非線形科学」と呼ばれる。

 

 「理系plus」というサイトに同期現象に関する動画をまとめた記事がある。非常に興味深いのでぜひ一度ご覧いただきたい。 

 

 

 次の数式をご存知だろうか。

 {\displaystyle {\frac {\partial \theta _{i}}{\partial t}}=\omega _{i}+{\frac {K}{N}}\sum _{j=1}^{N}\sin(\theta _{j}-\theta _{i}),\qquad i=1\ldots N}

 同期現象の数学的モデルを作り出そうと試みた科学者がいる。日本が世界に誇る非線形科学の第1人者蔵本由紀(くらもとよしき)である。先に挙げた数式は同期現象の「蔵本モデル」と呼ばれるものだが、この数式を数学的に理解する必要は(研究者でない限り)まったくない。ただ、この数式によって、ホタルの明滅、メトロノームの同期、ミレニアム・ブリッジの騒動といったすべての同期現象の背後に潜む数学的構造を表すことができるということさえ知っていればよい。数学的に知りたい方は、下のサイトをお読みください。非常にわかりやすく解説がなされている。 
 ちなみに「蔵本モデル」に表される数式を数学的に解いたのは、やはり日本人の千葉逸人である。千葉はtwitterでも有名なので知っている方もおられるだろう。ちなみに僕も以前「ヘウレーカ!!」という記事で取り上げたことがある。

 

  驚くべきは、同期現象という非線形的な現象の背後に、それを統一的に表すことのできる1個の数式が存在するという事実であろう。これこそ自然科学の醍醐味である。一見、全く違うように見える現象同士が、共通の数学的原理により記述できるという事実は、我々を驚嘆させる。僕らは別に受験に合格するためだけに数学を勉強しているわけではないんだ、ということがよくわかる事例だろう。自然を記述することすら、数学のごく一部の可能性でしかない。本当に数学って深遠な学問だなあ、とつくづく感じる。

 

 とはいえ、僕のような輩には数式ばかり出されても混乱するだけなので、下の本に頼った。非線形科学に興味をもたれた方には、ぜひお勧めである。

 

 

 「蔵本モデル」の創始者にして、非線形科学の世界的権威蔵本由紀みずからの著作である。この中には、数式はほとんど出てこない。その代わりに、これでもかというほどの同期現象の実例が紹介されている。これほど充実した具体例を、ひとつひとつ解説を加えながら、しかも完結にわかりやすく書いた本というのは、他にないだろう。必読書リストにぜひ加えたい一冊である。

 

 非線形科学的なものの見方というのは、今後の社会にとって必須の教養となるであろう。以前取り上げたカオスもそうであるが、分野を横断し統合する強力な体系が今後も登場し続けるに違いない。僕らはその黎明期を生きているのであり、新しい世界像の立役者に、外ならぬあなた自身がならないとも限らないのである。

 

カオスはこちら。

稲川淳二の恐怖がたり―僕の真冬の風物詩

ヤダなー、怖いなー

 

 気がついたら今年も、もう終わりかけで、年々、年の巡るスピードが速くなっていくのを感じる。もうすぐ秋が終わり、冬がやってくる。冬といえば怖い話だ。寒い季節にさらに寒気を増すために、僕は怖い話を探し求める。最近では、年中かき氷を食べられるようになっているという(もしかして昔から?)。怖い話だって、夏だけのものじゃない。真冬に、かき氷を食べながら、怖い話を聞けるようなイベントがあったら、きっと大盛況になるだろう。魑魅魍魎や怨霊たちに季節など関係ない。

 

 平安時代にはそこかしこに化物たちがいたという。なにせ死体が通りに転がっているのだ。路地には、死人の情念が濃い霧のように立ち上っていたに違いない。その気になれば、当時の人々は、いつだって幽霊と遭遇できただろう。何ともうらやましい世界ではないか。 
 しかし、都市はいつしか衛生という概念によって、整備されるようになっていった。今では、森林伐採が、野生動物の棲み処を侵食しているなどと言われているが、それよりはるか以前に、居場所を奪われるという憂き目に遭っていたのは、化物たちなのである。彼らもまた、声を出せない。僕らはいつだって、声なきものらの領土を侵食することによって、生きてきたのである。

 

 だが、しかし、彼らは息絶えたわけではない(というかすでに死んでいるな…こういうときなんて言えばいいんだろう)。彼らは今ではメディアの中に生息している。彼らはキャラとなり、ヒーローとなり、ヒールとなって、日夜活躍しているではないか。こうして彼らにまつわる話は過去から現在、そして未来へと語り継がれていかれるというわけだ。そして、現代には彼らの優れた語り部も存在している。その元祖であり、今でも最先端を走り続ける男がいる。稲川淳二のことをそのように紹介して疑義を唱える者はまずいまい。

 

 僕は、幼少期からずっと稲川の語りを聞き続け、そして読み続けてきた。彼の話は膨大に存在するので、ひょっとすると聞き漏らしているものもあるかもしれないが、大方のものは知っているつもりでいる。特に、小学生のころは、怖い話マニアだったので、彼の出るTVはすべて録画し、彼の著作は新しいものを発見するたびに買い漁った記憶がある。それは大人になった今でも続いているのだが、彼の数ある著作の中で、僕が大好きなシリーズがこれだ。

 

 これらは、稲川の怪談ライブを、活字化し収録したもので、稲川の話の中でも特に有名で、クオリティの高い作品ばかりがそろった逸品である。すべての巻がおもしろくて、怖い。中には、知っている話もあるだろうが、活字にされることでより詳しく、その話のディテールを追うことができるのが、何とも嬉しい。結構今までうろ覚えだった話もあり、「ああ、あれって本当はこんな話だったんだ」という気づきもある。

 

 僕の好きな話をいくつか紹介すると、

 

「先輩のハト」
 先輩の引っ越し先に後輩が遊びに行ったとき、毎晩窓を開けて寝るとハトが部屋に入ってきて、クックックと鳴きながら部屋をうろつきまわるという話を聞かされます。ある日、先輩が実家に帰るということで、留守番を頼まれたその後輩が、夜中に窓を開けたまま部屋で寝ていると確かにハトがやってきて…

 

「207号室の患者」
 「お願いだから部屋を変えて。窓の外に顔がぐちゃぐちゃになった女がいて、覗き込んでくるの」。207号室の患者は何度もナースコールを押して執拗に懇願してきます。看護師がおそるおそる窓の外を確かめてみても誰もいない。2階の窓の外に人がいるわけないのに。でも、その患者は執拗にナースコールをし続けてきます。そして、最後には…

 

「女王のための歩道橋」
 「この歩道橋は安全のためにつくられました」。人気のない場所になぜか唐突に出現する歩道橋がありました。噂では昔、劇の女王役に抜擢された少女が練習中に、車にはねられて死んだということです。そのような不幸を二度と起こさないために建てられた歩道橋。そこに4人の男女が肝試しにやってきて…(都市伝説としても語り継がれている有名なお話です)

 

 などなど、ほかにも「長い遺体」とか「血を吐く仮面」とか、背筋が凍りつくような話はたくさんある。稲川の話はどれもひねりが聞いていて、オチが来たと思いきや、実は別の真相があって、そっちがさらに怖い、みたいな2段オチも多いので、2回ゾッとできるのもお得である。

 

 そしてやはり稲川淳二最恐の話といえば「生き人形」である。Wikipediaにすら単独記事があるほどの超有名な話なので、聞いたことのない方はぜひ一度聞いてみる(あるいは読んでみる)ことをおすすめする。

 

 稲川淳二は人類最高の至宝であると言ってもよい。異界からきたのではないかと思うほどの心霊体験を有し、それらを惜しみなく語ってくれる。僕は科学をこよなく愛しているが、それと同じくらいこよなく心霊を愛している。それは僕の血が、半分は稲川淳二の怖い話で、できているからなのだ。

ぼぎわんが、来る―こんなの来たらぜったい嫌

それが来たら、絶対に答えたり、入れたらあかんて――

 

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【あらすじ】
幸せな新婚生活を営んでいた田原秀樹の会社に、とある来訪者があった。取り次いだ後輩の伝言に戦慄する。それは生誕を目前にした娘・知紗の名前であった。正体不明の噛み傷を負った後輩は、入院先で憔悴してゆく。その後も秀樹の周囲に不審な電話やメールが届く。一連の怪異は、亡き祖父が恐れていた“ぼぎわん"という化け物の仕業なのだろうか? 愛する家族を守るため秀樹は伝手をたどり、比嘉真琴という女性霊媒師に出会う。真琴は田原家に通いはじめるが、迫り来る存在が極めて凶暴なものだと知る。はたして“ぼぎわん"の魔の手から、逃れることはできるのか……。怪談・都市伝説・民俗学――さまざまな要素を孕んだノンストップ・ホラー!
最終選考委員のみならず、予備選考委員もふくむすべての選考員が賞賛した第22回日本ホラー小説大賞〈大賞〉受賞作。

 

 日本ホラー小説大賞は、なかなか大賞受賞を出さない。これまで24回公募が行われているが、その半数程度でしか大賞受賞作が出ていないのだ。審査員たちが本気で評価を行なっていることが窺える賞である。大賞受賞作は、小説化のみならず、映像化される可能性も高いということで、勢い選考委員たちも気合が入ることとなるのであろう。大賞のひとつ下は優秀賞であるが、これがすでにクオリティがとても高いので、それを上回る大賞作品というのは、それはもう、とても素人が応募してきたとは思えないほどの完成度を誇っている。

 

 本書『ぼぎわんが、来る』は、第22回ホラー小説大賞の大賞受賞作である。この後、大賞作はまだ出ていない。ホラー小説をあまり読まない読者は、ホラー小説というジャンルに対して、偏見を持っていることが多い。B級ホラー映画のような話が、文章化されたものとしか思っていない人すらいる。グロテスクでスプラッターな描写が延々と続くという誤解もある。こういった感想は単なる食わず嫌いによるものであって、現代ホラーは全くそういうものではないということを知ってもらいたい。

 

 本作は、ぼぎわんという怪物を巡る物語なのだが、そんじょそこらのホラー小説ではない。誇大な宣伝ではなく、本当に、恐ろしいほどよくできた小説なのだ。こんなによく書けていることのほうが、ホラー小説よりもよっぽどホラーではないか、と思うほどである。歴代の大賞作に引けをとらないどころか、それらを凌駕しており、大賞の中の大賞といってもいい作品だ。ホラー小説と呼んでしまうことに、かなりの違和感をすら感じてしまう。

 

 

文句なしに面白いホラーエンタテインメントである。(綾辻行人

 大当たりだった。選考をしながら早く先を読みたくてならない作品だった。(貴志祐介

 恐怖を現在進行形で味わうことができます。迷わず大賞に推しました。(宮部みゆき

 

 

こんな大物作家たちが、手放しで褒めている。面白くないわけがないであろう。

 

 本書は「第一章訪問者」、「第二章所有者」、「第三章部外者」の三部構成になっており、章ごとに三人称の視点が変わっていく構成になっている。これが実に素晴らしいアイデアで、それによって読者は、章が変わるごとに、それまでとは全く違った光景を見せられることとなる。感じとしては、芥川龍之介の「藪の中」に似ている。同じ事件について語っているはずでありながら、語り部が変わることによって、光景が全く違うものに変容する。本書は、現代版藪の中ともいえるような小説であり、読者は次々と様変わりする話に、否応なしに引き込まれることとなってしまうだろう。

 

 ホラー小説として読めるのは当たり前である。実にベタな物の怪vs霊能者という話でもある。そういった意味では、実に古典的で、これといったひねりのない設定ではあるのだが、まったく古臭い印象を受けない。
 ミステリーとしても秀逸である。なぜ、ぼぎわんはやって来るのか。これが読者に提示される謎のひとつである。タイトルはそのまま、読者への謎かけになっているのだ。さらに、ぼぎわんという物の怪の出自自体も謎である。その物の怪はどのようにしてこの世に産み落とされることとなったのか、これが二つ目の謎である。読者はこの謎に挑戦してみるのもいいだろう。分からなければページをどんどん捲れば良い。
 ヒューマンドラマとしても読める。登場人物の背景までもが丹念に描かれる。霊能者は単なる能力者ではない。彼らも人間なのだ。本書では、多くの人間が苦悩を抱えている姿が描かれる。彼らの苦悩にはある共通点がある。一見無関係に見える人々が、共通に抱える問題によって、この作品のテーマが浮き彫りにされる。

 

 作者の澤村伊智は、受賞後も定期的に良質な作品を提供し続けている。今後のホラー界を担う恐るべき人材のデビュー作を読まないという選択は決してあってはならない。

メフィスト賞の軌跡―その5 浦賀和宏

俺がそう決めたんだ。
誰にも文句は―言わせない。

  

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【あらすじ】
父が自殺した。突然の死を受け入れられない受験生・安藤直樹は父の部屋にある真っ黒で不気味な形のパソコンを立ち上げる。ディスプレイ上で裕子と名乗る女性と次第に心を通わせるようになる安藤。プログラムにしかすぎないはずの裕子の記憶が紐解かれ、浮上する謎。ミステリー界史上屈指の問題作が今甦る。
本書は先行作品に対する敬意ある挑発である。――京極夏彦(ノベルス刊行時)
(第5回メフィスト賞受賞作)

 

 Wikipedia浦賀和宏の経歴がねつ造されたものでなければ、彼がメフィスト賞を受賞したのは、20歳かそこらのことである。僕は、当時のことをよく覚えていないが、乾くるみ浦賀和宏積木鏡介(それぞれ第4回、5回、6回受賞者)の作品が3冊同時刊行されて話題となったらしい。これまた濃い面々だ。その後の、エンタテインメント界の新しい流れがようやく築かれつつある時代で、懐かしさすら感じる。こうやってメフィスト賞を一から(本当はゼロからだが)読み返してみると、それは広くエンタテインメント界の歴史をなぞることにもなるのだ。まだ「若い」賞だと思っていたが、ここまでくるとそろそろ歴史の重みを感じさせる賞になってきた感がある。

 

 浦賀和宏の作品は1作のみで語ることはできない。常に連作を意識して描いているのかどうかはわからないが、1作目で明らかにされない謎が多数出てくる。デビュー作の『記憶の果て』すら、例外ではない。デビュー作といえば、わかりやすく、読みやすく、1作できちんと解決するが常識であろうが、浦賀は小気味よいほどに、その常識を無視する。最後まで読んでも謎だらけである。伏線の回収がなされない。「ここまで引っ張っといてなんもなしかい!」と叫ぶ読者多数であろう。だが、それでよいのである。

 

 浦賀和宏は既存のミステリを嫌悪しているように見える。探偵という存在、明快なプロット、「必ず」回収される「よくできた」物語、理路整然とした論理的解決、浦賀はことごとくそれらを無視しつづける。そういった完成系としてのミステリ、ひいては文学そのものとの対決姿勢を、デビュー作からもありありと感じとることができる。『記憶の果て』という小説は、エンタテインメント作品としてもよくできた小説だが、その作品自体が、既製文学に対する批判の書として機能しているのだ。

 

 佐藤友哉西尾維新(彼らもメフィスト賞受賞者だ)の作品の主人公もそうだが、本作の主人公である安藤直樹も、強烈に肥大した自己意識を持っている若者だ。その若者が、これまた強烈な自分語りをしながら、話が進んでいく。若者はみんな屈折しているものだ(僕はいまだに屈折している)が、これほどまでに見事に卑屈な男を見ると逆にすがすがしくなる。彼は父の残したコンピュータ上にしか存在しない「裕子」と対話し、魅了されながら物語は進展していく。このコンピュータ上にしか存在しない女性「裕子」と直樹の関係を主軸にした設定というのは、当時の時代背景を反映したものであろう。ちょうどコンピュータが我々の日常生活に浸透し始め、美少女ゲームにハマる若者が増え始めた時期である。このすぐ後に、東浩紀は『動物化するポストモダン』を上梓し、一躍時の人となった、そんな時代だ。

 

 ネタバレになるので詳しくは語らないが、文化的禁忌事項に躊躇なく踏み込んでいくのは、浦賀和宏佐藤友哉西尾維新(いわゆる脱格系)の大きな特徴である。本作は、デビュー作ということもあって、遠慮がちにはなっているが、それでもかなりの紙面を割いて、禁忌事項に切り込んだ描写が見られる。禁忌事項を積極的に取り入れ、それを軽やかに(揶揄しているわけではなく)弄ぶことができるのが、この新しい世代なのだ。また、「セカイ系」という言葉が、まだ生きているのか死語になってしまったのか、よくわからないが、この作品はそれに近い形態のものであろうかとも思われる(もちろん世界を救う話などではないが)。

 

 僕は、浦賀和宏には当初からとても好印象を持っている。いまや押しも押されぬ有名作家になったので、うれしい限りだ。しかし、彼の作家としての道のりは、決して平たんではなかった。デビュー作というのは、良くも悪くも、作家のイメージに大きな影響を与えてしまう。デビュー時からこのような問題作を産み出したことは、浦賀和宏にとって、それほど幸運なことではなかったのかもしれない。だが、若いということは何をやってもよいということなのだから、これでよかったのだと僕は思う。その後の浦賀は、手探りを繰り返し、いろんな実験的ミステリを描きながら、堂々と今の地位を確立した。

 

 本作は安藤直樹シリーズとして驚くべきことに今も続く「シリーズもの」と化している。これほどぶっ壊れた世界を連作として描き続けることに、僕は度肝を抜かれた覚えがある。本作では脇役だったものが主役になり、本作では語られなかった伏線が語られていく。しかし、浦賀和宏はすべての物語をきれいに、回収して終わろうなどという、ありきたりな良心は持ち合わせていないことに注意しよう。

 

 浦賀和宏以降の脱格系は、デビュー時からより洗練された形で作品を書き、純文学の領域にも華麗に進出するようになった。それは彼らの筆力が優れているのは、もちろんなのだが、それだけではなく、浦賀和宏の存在が大きいだろう。浦賀が本作『記憶の果て』において、脱格系のプロトタイプを鮮やかに提示してくれたからこそ、以降の書き手たちはそれを下地にして、より優れた書き方を創出できるようになっていったのである。

 

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